性差別、ヘイトスピーチ論議に必須!「表現の自由」の超基礎知識

憲法学者が丁寧に解説します
志田 陽子 プロフィール

それゆえ、なかには、規制が必要となるケースもある。

先に見た「思想の自由市場」の眼目は、流通する表現の《量》よりも《多様性と自浄力の確保》だろう。特定の選択肢が絶対化されず、常にさまざまな選択肢があること、そして悪質なものは受け手が批判をしたり距離をとったりできることに、表現の「自由」の意義がある。

しかし、偏見を煽るステレオタイプやヘイトスピーチが席巻する空間で、こうした「多様性」や「自浄」が働かない場面がある

その場合には、むしろ「自由な言論空間」を確保するためにこそ規制を導入すべき場面がある。近年のヘイトスピーチ規制はこの場面への対処だった。今、女性やLGBTが差別や偏見を含んだ表現に「NO」という声を挙げているのも、このような流れの中でのことである。

しかし、ある表現を言論空間から追放することは反批判のチャンスを奪うということになるので、よほどの場合に限られる。このことと「反対意見を述べること」の間には大きな違いがある

 

「表現の主体」も重要な要素

表現をする主体が誰であるかによって、その表現に対して持つべき《責任》の大きさも変わってくることにも注意をしておく必要がある。再びジェンダーにおける表現を例にとろう。

世の中には、ステレオタイプに苦しんでいるマイノリティは少なくない。ジェンダーの分野であれば、男女それぞれに期待される存在価値や役割や、「家族・婚姻は子孫を生産するためにある」といった意味づけは、それが「自然」や「美」と結び付けられて語られやすいため、その政治性・権力性、国家との関わりが意識されにくい。

しかし自己の存在価値をどこに見るかは、各人の自由な認識や実践にゆだねる、とするのが憲法13条(幸福追求権)や19条(思想・良心の自由)がとっている考え方である。日本国憲法が採用している価値態度は、ステレオタイプを固定する意味づけに縛られて苦しんでいる個人がいたとき、その個人をそこから解放していく方向を示している。

ここでマイノリティがステレオタイプからの解放を求めて表現にたいして理解・配慮を求める声と、「表現の自由」として表現をしたい人の意欲が衝突してしまったときには、どうしたらいいのだろうか。

今、女性の役割と生き方を表す表現や性表現などについて、その許容限度(社会的にアウトにすべき線引き)をどこに置くべきか、というところで、この衝突が起きている。

表現に伴う《自由》と《責任》は、表現の場面によってバランスが異なってくる。表現空間には、公共性の高い空間と、私的自由の性格の強い空間とがあり、《責任》の度合いは公共性の高さにつれて高くなるのである。

もっとも私的な言論空間は、親しい関係にある人間同士が集まって雑談をする場面だろう。一方、もっとも高い責任が要求されるのは、公的機関の発言である。政府機関のホームページや人権啓発ポスターや自治体PRなどがそれに当たる。

政府や自治体のポスターは問題にされやすい〔PHOTO〕iStock

たとえば、自治体の魅力を発信しようとした広報活動のうち女性へのステレオタイプや性的魅力を強調していると見える表現が問題視され、話題となる場面がある(「碧志摩メグ」や「私を養って」というキャッチフレーズと若い女性を組み合わせた表現、最近いくつかの自治体で採用している「自衛官募集」ポスターなど)。

自治体の広報は「公」が発する言論に属するもので、一般人と同じ「自由権」の保障を受けるものではない。そこに「公の言論としては不適切ではないか」との批判が生じてきたとき、公の機関が発する表現は憲法21条の「表現の自由」によって保護されるわけではなく、またこれを規制する法律がとくにあるわけでもないので、市民と「公」との協議によって適切な表現へと収束させることが求められる。