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性差別、ヘイトスピーチ論議に必須!「表現の自由」の超基礎知識

憲法学者が丁寧に解説します

インターネットで誰もが意見を表明できるようになり、「表現の自由」という言葉を目にすることが増えた。表現は常にだれかを傷つける可能性を持っているが、一方でその自由は守られなくてはならない。

一体どのような時に「表現の自由」は制限されることがあるのか(制限されるべきなのか)。「表現の自由」というアイデアの核心に迫りつつ考えたい。

 

「異論」のない社会は存在しない

近年、コンビニに成人誌を置くべきか否かの論争に象徴的に現れるように、メディア上の表現や、書店・コンビニに配置された本が、女性や児童、障がい者にたいして不適切である、配慮がない、弱者を傷つける表現である、との声が上がることが増えた。

筆者はこのこと自体は健全な流れだと思っている。

どんな表現も、誰かを不快にさせているものである。もしも、声が上がらない社会があるとすれば、声をあげたい人々が何かを怖れて沈黙している《絶対的差別社会》か、声があがる可能性を国家が先回りして神経質に摘み取っている《表現の不自由社会》かの、どちらかだろう。

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「表現」は人の感受性や自尊心を傷つける可能性を常に持っている。その「表現」を、先回りして傷つく人が出ないようにという発想で国家が規制すれば、あらゆる「表現」が立ち行かなくなる。

だから、傷ついた人々は、泣き寝入りせずに「その表現は私にとって不快だ、つらい」「私はその表現を子どもに見せたくない」という「表現」(対抗言論)を社会に出すことで、不快と思う表現を淘汰する「自由」を与えられている

批判をされた側も、自己の表現に価値があると思うなら、そのことを主張し、撤退せずに頑張る「自由」がある

異論というものが起きない完全な調和の世界というものは、おそらくどこにもないし、将来も実現しない。

むしろ、衝突や異論があることによって、社会はハンドルを右に切ったり左に切ったりアクセルを踏んだりブレーキを踏んだりしながら進んでいく。こうした試行錯誤にたいして開かれていることが、「表現の自由」が想定している「自由」のあり方である。

そうした基本的な考え方があるので、「表現」にたいして国家や自治体が規制をする場合には、強い必要性がなければならないし、必要性が認められる場合にもその規制のあり方は必要最小限度のものであることが求められる。

これはどのような表現も絶対無条件に放任しなくてはならないということではなく、目的や必要性の不確かな規制を排除して市民の側の自由を確保するための考え方である。

だから、「これは品のない不快な言論だ」と思ったら、一般人がそういう対抗言論を行うことが期待されているのである。こうした考え方を「思想の自由市場」という。これが「表現の自由」の想定する基本的な環境と考えられる。