果たして偶然か……三島由紀夫の死は「ある友人の命日」と同日だった

三島由紀夫「自裁死」の謎に迫る
保阪 正康 プロフィール

「戦争の話は一切しなかった」

実際に私も取材の折に、山崎家の周辺を克明に見て歩いたのだが、確かに洋館風の山崎家の外観からもそのことが窺えた。三島は『青の時代』の中で、主人公・川崎誠(山崎はこの名で小説化されている)の育った家について次のような文章を書いている。

「石の門と飾りけのない二階建の外観は、見るからに、酒一つ嗜まない家長の謹直さを偲ばせる。この家の唯一の面白味は、川に突き出したヴェランダで居ながらにしてできる鯊釣であつた」

三島がこの小説を書き始めたのは昭和24年12月からといっているので、山崎の死からわずか1ヵ月ほど後のことである。三島は一つの作品を書くのに年単位の時間を使うといわれているが、これほど短期間に作品化することはきわめて珍しい。つまり事前に山崎との交流があったことも、短期執筆の原因のひとつになりうるのであった。

前述のように、三島がこの作品を失敗と認めるのも、あまりにも慌ただしく書きすぎたと認めていたからであり、それは亡き友を弔うといった感情があったからではないかと私には思える。

昭和20年代の初め(つまり戦争が終わった直後からの2、3年間ということになるが)、東大の法学部で学んだ学徒を、私は何人か探し出して、その時の友人関係がどうなっているかを確かめていった。何人かから話を聞いた。三島と山崎の二人は、学年は違うが同じ授業を受けていたという証言も聞くことができた。

私は平成7年から現在もまだ、東京・新宿の朝日カルチャーセンターで月2回、昭和史講座を続けている。これまで延べ2万人の人々に語ってきたことになるのだが、その中に、ある全国紙の元役員がいた。ちょうど山崎と同世代の学徒兵、そして主計将校で敗戦を迎え、復学したとの経歴であった。その元役員が興味深い事実を教えてくれた。

昭和21年、22年と言えば、戦争帰りの学生ばかりで、教室でも、どの戦場に行っていたのかとか、あいつはどうしただろうかといった会話が多かったという。その元役員は、いくつかの授業でそのような会話に一切加わらない学生が二人いることに気づいたというのであった。

「一人が平岡(公威)ですよ。三島由紀夫だね。もう一人が山崎だった。僕がなぜそれをおぼえているかというと、二人があまりにも特徴的だったんだ」

彼によると、三島は小柄でまだ少年のようであり、これは戦争には行ってないなという感じだったという。また、山崎は戦争の話は一切しなかった、ということで印象に残っているそうだ。