(左)三島由紀夫(提供:Gettyimages) (右)山崎晃嗣(提供:朝日新聞社)

果たして偶然か……三島由紀夫の死は「ある友人の命日」と同日だった

三島由紀夫「自裁死」の謎に迫る
シリーズ累計22万部を突破した保阪正康『続 昭和の怪物 七つの謎』。その中で、読者の反響の大きい「第1章 三島由紀夫は「自裁死」で何を訴えたのか」より一部を掲載する。

戦後日本を騒がせた光クラブ事件

三島を理解するには二つの言葉を軸に、その一生を解きほぐす以外にない。その二つとは、「などてすめろぎは人間となりたまいし」、もう一つは、「戦後を鼻をつまんで生きてきた」である。

前者は人間天皇に対する不信、後者は戦後民主主義体制に対する嫌悪感と評することができるであろう。この二つの言葉について吟味することが、三島の政治的立場を歴史化する要諦になるであろう。

私は初対面の印象もあるのだが、三島をどうしても政治的実行者のタイプには見ることができない。文学者としての政治運動を行ったとも思えない。政治評論家、文芸評論家の分析に対する違和感もあり、もっと異なった視点での分析をすべきだと考えつつ、これまではできないでいた。ここで私なりの新たな分析を試みてみたい。

私は特に三島とは関係なく、戦後日本を騒がせた光クラブ事件を起こした山崎晃嗣という人物に関心を持った。それは、かつて学生時代にこの光クラブでアルバイトをした人物と知り合ったからで、いつかこの人物を等身大に書いてみようと思っていた。

山崎晃嗣/提供:朝日新聞社

むろんそこには私の持論である「年譜の一行を一冊の書に」という思いもあった。そう考えた頃、年齢的にこの持論を実行するのはこれが最後の作品になるであろうとも思っていた。この書は『真説光クラブ事件―東大生はなぜヤミ金融屋になったのか』として、角川書店から平成16(2004)年に刊行された。

山崎の軌跡を追い求めているうちに、実は彼が東京帝大の学生として学徒出陣し、そして北部軍の主計将校として終戦を迎えたそのプロセスに、陸軍の不条理が凝縮されていることがわかった。山崎が東大に復学した時に、三島と同じ学年であったこともわかった。二人は意外なほど接点があったのである。

三島の作品の一つに、『青の時代』がある。これは『新潮』の昭和25年7月号から12月号までに連載されたのだが、それに一部加筆して単行本として上梓された(昭和25年)。

山崎が自決したのは昭和24年11月であったから、8ヵ月ほどで作品化したのである。小説としては、三島自身はあまり出来は良くないと思っていたらしい。のちに著した『私の遍歴時代』によるなら、

「(1950年、51年の私の仕事ぶりを見ると)取材も構成もおろそかにしていきなり光クラブ社長の小説化に飛びつき、およそ文体の乱れた『青の時代』などを書いてゐる」という自己評価であり、自らの文学作品としては失敗だったにせよ、山崎を通して何かを訴えたかったということはできるであろう。

この『青の時代』を改めて読むことで、私は山崎と三島が友人ではなかったのかとの印象を持ったのである。