日本初「100万部の国民雑誌」を生んだ若者の熱狂

大衆は神である(48)
魚住 昭 プロフィール

野間イズムの確立

それでも、清治の野心は止まるところを知らない。以下に記すのは、『キング』創刊直前の大正13年秋、少年指導者の笛木悌治の身辺に起きた出来事である。

新雑誌『幼年倶楽部』の研究会が音羽邸で開かれた。出席者は社長夫妻、社の幹部、児童物経験者等約30名。笛木は、社内全般の仕事に係わりのある少年部の責任者として出席した。

会議は進行し、新雑誌の編集責任者を決める段階になった。編集者といっても創刊誌の場合、単に編集面だけでなく、雑誌全般の責任を兼ねるのであるから、これは重要な人選になる。

 

笛木はそうした議事の内容には、直接係わり合いもなく、少しぼんやりした頭で聞いていると、突然清治の口から、笛木の魂を宙に飛ばすような言葉が飛び出した。

「新雑誌の編集を、もし、笛木がやってくれれば、笛木にやってもらいたいと思うがどうでしょう。笛木は今少年部の方の責任者としてやっているが、少年部としても笛木が離れることにはいろいろ問題もあると思うが、新雑誌の担当は重大な責任で、笛木なら立派にやれると思う」

青天の霹靂であった。笛木はすぐに返事の出来るはずもなく、言うべき言葉の見当もつかない。そのうちにふたりの幹部社員から「これは社長の特別のお考えによるものであるから、笛木君としても、ありがたくお受けする方がよかろう」と発言があった。

いよいよ笛木は何とか言わなければならぬ。

「せっかくのありがたいお話ではありますが、私には編集についての経験も才能もなく、活字の号数すら知らない不適任者であります。それから少年部についても、今後に対する重要な課題を抱えていて、私の一存ではご返事申し上げかねますので、少年部の主なる者ともよく相談の上、ご返事を申し上げさせていただきたいと思います」

笛木は翌日、団子坂の社に出向き、少年部の指導的立場にある数人に集まってもらい、前日の話を伝えて意見を求めた。心のなかで、みんなは社長案には反対してくれるだろうと思い、それが当然のように期待していたところ、全員が「少年部の方は、及ばずながら我々が協力してやっていくから、笛木さんは、ご苦労でも新雑誌の方を引き受けなさい」と言った。

笛木は仕方なく、社長の前に出て、少年部の意向を伝えたうえ、「しかし、どう考えてみても、私はやれる柄ではありませんから」と許しを乞うた。

社長は「お前ひとりでやるわけではない。幾人かの人と協力してやるのだから、あまり頑なに考えずに、まあやってごらん」と言った。

笛木の手になる『幼年倶楽部』創刊号は、大正14年12月7日に発売された。部数は35万部。児童雑誌の創刊号としては例のない大部数である。評判もよく、よく売れ、可憐な読者たちが書店の前に行列をつくるほどの盛況であった。

その後も売れ行きは増し、昭和6年(1931)新年号は95万部という児童雑誌としては例のない部数に達した。

「中等学校に行かなくとも偉くなれる」

笛木は、清治の信念を体現した最初の少年部出身者となった。
                               (第五章 了)

註①『物語 講談社の100年』(講談社刊)参照。