日本初「100万部の国民雑誌」を生んだ若者の熱狂

大衆は神である(48)
魚住 昭 プロフィール

9月中旬ごろから、少年部員に全国の書店を訪問させることになり、2人1組で20組余が出張した。清治は出発数日前に出かける者全員を音羽邸に集め、書店訪問についての細々とした注意を与えた。その際、ただ注意だけでなく、実際に即して演じさせた。

清治が書店の主人になり、少年が店頭に臨む時からの仕草をやらせる。書店主への口上も述べさせ、それを批評し、また注意を与えた。清治が示した口上の見本は次のようなものだった。

「私は東京の講談社からお伺い致しました。平素は特別のお世話様になっておりまして、お礼の申し上げようもございません。いつもいつも、うるさく書面を差し上げたり、ビラなどをお願いしたりして、社内では恐縮しておりますのにお叱りもなく、数多い雑誌社の中で、私どもだけ特別に懇情ご援助下され、じつにどうもありがたい。とても手紙などでは如何にしても申し上げきれない。社員が上がらなければならないところですが、多忙のため失礼させていただき、少年で失礼ではあるが、お前たちが上がって、よくお礼を申し上げるようにと言われて参りました」

笛木は16歳の後輩少年とともに北海道と樺太を24日間にわたって回った。襟に『大日本雄弁会講談社』と染め抜いた厚司(あつし)を着て黒い帯をしめ、高下駄をはいて書店を訪ね歩いた。

 

札幌で最初に訪ねたのが、最有力書店の富貴堂(ふうきどう)だった。そこの店員の案内で、笛木らは3日間に43軒の小売店を回った。案内した富貴堂の店員は、各書店で口上を述べる笛木の情熱に打たれ、富貴堂の店主も「少年ながらその気迫は大したもの」と絶賛した。

笛木の熱に動かされたのだろう。富貴堂は札幌の小売店に呼びかけ、「札幌キング会」を結成、王様の仮装をした者を馬車に乗せ、太鼓を叩いて宣伝ビラをまいた。その甲斐あって『キング』は札幌だけで1万部売れ、富貴堂では2時間に700部売るというレコードをつくった。

売れたのではない、売ったのだ!

書店訪問の傍ら、講談社は全国の新聞に大広告を連発し、読者に宣伝郵便を直接送った。

『広告五十年史』(日本電報通信社)によれば、その数は葉書が通算183万6000枚、封書が32万5000通余りにのぼった。発売当日には全国6000書店あてに「キングイマデキタトクニユウリョクナルキテンノネツレツナルジンリョクヲコフ」という電報を打った。

これらの作業の主役になったのも少年部員たちだった。彼らはあたかも清治の魂が乗り移ったかのように夢中になり、不眠不休で働いた。

『キング』は飛ぶように売れた。初刷りの50万部に増刷分を含めて62万部発行され、売り上げは58万部余りにのぼった。口述録での清治の述懐。

〈それ(『キング』創刊)から間もないことであるが、少年部で毎晩修養会を開いている。私の部屋にいると、その時分に修養会はお勝手の近所の部屋でやるので、ピンピン聞こえる。今は社員になっているが、その時分少年部の世話をしておった中里辰男が大きな声をして熱心に説いている。

聞くともなしに聞くと、「キングは売れたのではないぞ、キングは売ったのであるぞ、すべて世の中のこと、この勢いでやらなければならぬ、精神一到で貫くのである。(略)自然に売れるだろうと言ったような考えでは駄目だ。売って売って必ず売り抜くぞ、こうやれば売れない道理はない。こうやってもああやっても、どんな苦労をしても必ず売り抜くぞという、そこへ行くのでなければならぬ」といったようなことを演説している。

一々がキングを演説の材料に使って、キングの大成功を家中喜び喜んで、これで大日本雄弁会講談社も一躍して雑誌王と世間で称えられる程度に卓越したものになった〉

『キング』はその後も売り上げを伸ばし、昭和2年(1927)新年号は120万部を発行した。創刊2年でほぼ倍増するとともに、日本の雑誌史上初めて100万部を突破したのである。