日本初「100万部の国民雑誌」を生んだ若者の熱狂

大衆は神である(48)
魚住 昭 プロフィール

「五十万部」の波及効果

一方、創刊号の発行部数をめぐって東京堂、東海堂、北隆館などの取次各社との折衝が進められた。清治は「ここまで準備の手を尽くしたのだから少なくとも七十五万は出る」と確信していた。しかし、当時最多といわれた『主婦の友』の部数でも25〜26万部だったから、取次側は慎重な姿勢を崩さなかった。『私の半生』での清治の述懐である。

〈取次店を説いて、「キング」五十万の配本を引き受けてもらうまでには、並大抵の努力ではなかった。取次店の代表者たちとこちらの者との間に数回の会議が行われた。先方は二十万から出発して、すこしずつ上げていった。そして一段ごとに非常な渋り方を示した。

先方ではいろいろな先例を持ち出し、とくに「講談倶楽部」創刊や、その他のものの創刊の場合を指摘して、なかなかこちらの要求に応じてくれない。こちらは百万から出発して、すこしずつ渋り渋り下げていった。たがいに論じ、説き、勧告し合った。ついに東京堂の大野氏が、ぐっと勢いこんで確信的語調で言い切った。

「野間さんのことですから、講談社さんのことですから、思いきって五十万やってみましょう。ただしそれ以上は一部でもお断りします!」〉

『キング』の初刷り部数は大野孫平の鶴の一声で決まった。戦後になっての大野の回想。

〈皆が反対しましてね。私のほうでさえ躊躇しているんですから、他はもちろん反対ですからね。それだからまとめるのも骨が折れたんです。結局五十万になった。

というのは、最後に野間さんからこういう方法とこういう方法でやるというのをスッカリ聞きましたんです。それ(=『キング』)ができたら、全国の小売り店に電報を打ってやるとか、あるいは激励の電報を打つとか、あらゆる手を用い、また内容については、何年も研究に研究を尽くして(略)、再三再四、本当に社員全体にも読ませたとか、なんかそういうようなお話もあったように思う。

こういうわけであるし、宣伝の方法もよく聞いて、至れり尽くせりで、これだけのことをやられるなら、これは五十万は大丈夫だという決心になりまして、それじゃというので五十万に決まったんです〉

50万の大量印刷に対応するため、秀英舎(のちの大日本印刷)は工場を増築し、新活字を購入した。32頁掛けの輪転機では間に合わないので64頁掛けの輪転機を輸入した。

また用紙の面でも王子製紙は『キング』の需要に応じるため、重役が2回も洋行して用紙の研究をし、新しい紙漉機械を購入した。

フル回転する少年部

『キング』発刊に向け講談社の少年部はフル回転した。笛木悌治は音羽邸にあって、社長の指令を本社に伝える仕事に早朝から深夜の午前2~3時まで忙殺された。笛木の回想。

〈朝は本社から掛かってくる電話で起こされるのが普通で、すぐ電話にかかる。社長が寝んでいる間はそれを書きとめておき、後で申し上げるわけだが、大体長い用件だから、常に手帳を離さずこれを書きとめておいて社長に報告し、次の指示を受けるようにしていた。

ある時の如きは、朝、電話が掛かって来て起こされて、それから電話々々で、奥の社長とお勝手元にある電話の間を往復すること幾十度。その用件が、大体急を要するものばかりであるため、本社からの電話をすぐ社長に報告する。そこで社長がその電話の返事や、或いは新たな指示命令を出す。するとそれを、間、髪を入れず本社の方へ伝える、という具合で、ご飯を食べる暇がない。

朝飯も食べず、昼めしも食べず、夕方になってもまだ食べる暇がない。お勝手に働く人たちが気の毒がって、おみおつけを温め直してくれる。それが幾度もくり返されて、漸く朝昼晩の三回分を一緒に、夜の八時頃食べた事などもあった〉(『私の見た野間清治』)

宣伝の大物量作戦が展開された。都市はもちろん、辺鄙な農漁村に至るまで、さながら日本列島全体が講談社による絨毯爆撃、それも何回も反復される波状攻撃にさらされたかのようだった(註1)。