平成の時代に着実な前進を見せた日本サッカー…その歩みを振り返る

時系列で並べていけば一目瞭然

着実な前進

30年以上続いた「平成」が終わった。

日本サッカーにとっては、大きな進歩を遂げた時代になった。時系列で並べていけば一目瞭然である。

1993年(平成5年)に日本初のプロサッカーリーグとなるJリーグが華々しく開幕し、同年10月には初のワールドカップ出場に王手を掛けながら最後の最後、イラク代表に追いつかれて夢が途絶えた「ドーハの悲劇」があった。

1996年(平成8年)にはアトランタオリンピックのグループリーグでブラジル代表を撃破する「マイアミの奇跡」。翌年(平成9年)はフランスワールドカップのアジア第3代表決定戦でイラン代表に勝って悲願のワールドカップ出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」。続けて大きな出来事が起こっている。

1998年(平成10年)のフランスワールドカップ以降は「対アジア」から「対世界」の時代に突入する。中田英寿がセリエAのペルージャに渡ると、海外を目指すプレーヤーが増えていく。1999年(平成11年)は小野伸二、稲本潤一ら黄金世代と呼ばれたU-20代表がワールドユース(現U-20ワールドカップ)で準優勝に輝き、2002年(平成14年)には日韓ワールドカップが開催され、“フラット3”のフィリップ・トルシエ監督のもとで日本代表はグループリーグを突破して、ベスト16に進出した。

2010年(平成22年)の南アフリカワールドカップは直前までの低評価を覆して2大会ぶりに決勝トーナメントに駒を進めた。東日本大震災のあった2011年(平成23年)にはなでしこジャパンが女子ワールドカップを制覇。また、2018年(平成30年)のロシアワールドカップでベスト16に進出。強豪ベルギー代表に2点リードしながらも、惜しくも逆転負けを喫した。

歓喜と落胆、成功と失敗を繰り返しながら、平成の世で日本サッカーは着実に前進してきたと言える。

平成サッカー史を振り返っていくと、どの出来事も印象深い。ただ、最初の大きな成功体験となった「ジョホールバルの歓喜」から、学んだことは非常に多かったように思う。成功を得るための大切なエッセンスが、ここには詰まっていた。

 

(1)準備の大切さ

1997年11月16日、舞台は中立地マレーシアの都市ジョホールバル。日本は高温多湿の環境に慣れるべく、試合の6日前に現地に到着していた。一方のイランは第3代表決定戦に回ることが決定してから移動してきたために試合の2日前にマレーシア入り。飛行機の遅延もあって、疲労を溜めた状態で決戦の地にやってきたのだった。

岡田武史監督に、このときのことを振り返ってもらったことがある。

「マレーシアでやれることも我々にとっては大きかった。我々はしっかり暑熱対策をやってからジョホールバルに入ったけど、逆にイランは直前になって入ってきたよね。だから後半、彼らの運動量は明らかに落ちた。

試合前日には我々の練習中に、イランが周りをランニングしたり、アジジが車イスに乗っていたり……サッカー以外のところで集中していた感があった。我々は逆にサッカーそのものに集中していた」

移動距離や時差などで言えば、日本のほうがイランよりも条件は良かった。だがこういった準備の差が、最後の最後にあらわれるという「教訓」を得た。(2)プレッシャーに打ち勝つ大切さ

勝ったら天国、負けたら地獄。言葉では言いあらわせないほどのプレッシャーがのしかかる状況下で、力を発揮しなくてはならない。

ガチガチにならず、集中が途切れなかった。

その意味で象徴的なシーンがあった。2-2で迎えた延長後半13分、イランは右サイドからディフェンスラインと川口能活の間に低く速いアーリークロスを送り、逆サイドからエースのアリ・ダエイが飛び込んできたのだ。川口は懸命に前に出て阻もうとし、ダエイのシュートはバーの上を飛び越えていった。そのときだ。川口は座り込むダエイの頭をポンポンと撫でたのだ。

のちに川口は語っている。

「グラウンドがスリッピーでクロスのボールが伸びるなとは思っていましたし、ダエイが来たことも分かっていました。さすがのダエイも届かないだろうと思っていたら、届いた。ダエイが凄く悔しそうな顔を浮かべていたので、『大丈夫か』みたいな感じでした。あんなことやれるぐらい、精神的に落ち着いていたんだと思います」

このシーンの直後に、岡野雅行の決勝ゴールが生まれた。プレッシャーに負けず、集中を切らさず。加茂周監督の解任や様々な出来事を乗り越えて、精神的にもタフになったことが、「落ち着き」をもたらしたのだった。