池袋西口の中華『新珍味』はなぜ台湾独立運動の聖地となったか

店主は100歳の台湾人革命家・史明
田中 淳 プロフィール

2階はバー、5階は本気の爆弾製造工場

「サントリーの角瓶なら2人で1本、ジンなら1人で1本、毎晩のように空けていた」という史明の酒好きが高じ、『新珍味』は一時期、2階をバーにしていた。

簡単なカウンターをしつらえたその空間に、彼は『バー・ゼーランディア』と名付ける。ゼーランディアは、オランダ統治時代の1624年にオランダ東インド会社が台南に築いた城塞で、観光名所になっているゼーランディア城(安平古堡)のことだ。

 

「“池袋モンパルナス”の名残で、戦後も池袋界隈のアトリエ村には有名無名の画家たちが住んでいたから、彼らが中心となってバーを盛り上げてくれたよ。はっきり憶えてはいないが、画家の熊谷守一やセツ・モードセミナーを開いた長沢節などが通ってくれたように思う」

多彩な交友を重ねながらも、史明は『新珍味』が台湾独立運動の拠点であることを片時も忘れない。身銭を切って在日台湾人や台湾在住の若者ら延べ1000人を『新珍味』で受け入れ、革命成就を目指す秘密の勉強会や、テロリストとして養成するための具体的な訓練を施していた。

台湾独立運動のため、毎夜のように人々が集まり、喧々囂々の議論を戦わせていた。史明は物心両面において運動を支え続けた(写真提供:独立台湾会/財団法人史明教育基金会)

特筆すべきなのは、史明が『新珍味』の5階で爆弾を自作していたことだ。

台所の一部を改造し、日本赤軍のメンバーの助言を受けながら黒色火薬や塩素酸ナトリウム、爆薬火薬などを調達したという。

「爆竹の火薬を利用したこともあった。作った爆弾は、日本から尖閣諸島経由で密航した同志が台湾に持ち込み、密かに実験をしてから軍用列車爆破などのテロ活動に使った。台湾独立運動の主戦場はあくまで台湾本島だから、俺自身が台湾に密航したこともあるよ」

1970年代は日本でも、連続企業爆破事件のような左翼組織によるテロ活動が頻発していた。時代の空気とはいえ、池袋駅前の繁華街で繁盛する中華料理店が爆弾工場だったことは驚きだ。爆弾を作った『新珍味』の5階はのちに改装されたが、史明が起居していた4階は今も当時のまま保たれている。

ほこり除けの新聞紙で覆われ、今も当時のまま残されている新珍味の4階の史明自室(撮影:田中淳)

台湾とは敵対する中国出身の店長、2号店も視野

金田店長が『新珍味』にやって来たのは2010年。彼は文化大革命真っ只中の1968年に中国東北部の遼寧省瀋陽で生まれた中国人だ。中学卒業後に調理師となり、30歳で来日。各地の中華料理店で腕を奮い、日本国籍も取得した。

史明は台湾へ本帰国したあとも、店の経営を確認するため毎年2ヵ月間、『新珍味』に滞在。金田店長にも厨房で手ずから指導した。

「中国の脅威に立ち向かう台湾人革命家の史明先生が、中国出身の私を雇うのは不思議だよね。でも先生は『俺が批判しているのは、中国共産党や中国の一党独裁体制。個々の中国人と政治は別ものだ』ときっぱり。中国人のアルバイトなどにも分け隔てなく接していたよ」

史明の味と志を受け継ぎ、今日も金田店長は調理場に立つ(撮影:田中淳)

史明の面倒見のよさはよく知られていた。刑務所に収監されていた台湾人ヤクザの身元引受人になって店で雇用したり、身寄りのない少年院上がりの若者を店員に招き入れたりしたことも一度や二度ではない。

もっとも、30年来の常連のM氏によると史明の指導は厳しかったという。

「昔は気が短かったから、厨房でしょっちゅう当時の店長と衝突していた。『ハイは1回だけでいい!』も口癖だった。それでもひと仕事を終えると、カウンター右端の指定席に座ってオレたちと遅くまで杯を傾け合ったものだ」

トレードマークの白髪とヒゲから「仙人」の愛称も。店内に史明の姿がない夜は常連から「仙人はどうしているの?」「あれ、今日は仙人がいないね」などの声が飛び交ったという。

「そんな史明先生が『新珍味』に来なくなって久しいけれど、今も先生を慕って店に通い続ける客は多いし、台湾人の立ち寄りも増えている。その影響力の大きさを日々実感するね」と金田店長。彼は目下、向こう2年以内に新宿か上野で2号店をオープンし、史明の革命精神が詰まった味を広めていこうと画策中だ。