photo by gettyimages

「院政」から見えてくる、令和以降の皇位継承のあり方

「院政 天皇と上皇の日本史」はじめに

202年ぶりの天皇退位

2016年8月、高齢による退位の意向を述べる「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」がテレビで放送された。

その後、内閣官房に設置された「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」および国会における議論を経て、2017年6月に、「天皇の退位等に関する皇室典範(こうしつてんぱん)特例法」が公布され、退位と代替わりに関わる諸事項が定められた。

 

近年の皇室においては、天皇位継承の見通しと皇族数の減少が大きな問題となっていたが、この特例法によって、前者についてはひとまず確定し、後者についても女性宮家創設等を検討する必要性が、付帯決議として示された。

古代から今日まで、125代にわたる天皇の歴史の中で、生前に皇位を退いたのは58例と、半分近くになる。ところが、近代の皇室に関する法律である「皇室典範」には、天皇の退位(生前譲位)についての定めがない。

明治22年制定の大日本帝国下の「皇室典範」、「第2章 践祚(せんそ)即位」の項の第1条には、「天皇崩ずるときは皇嗣(こうし)即ち践祚し祖宗の神器を承(う)く」(天皇が崩御すれば、皇太子がただちに天皇位を継承し、三種の神器を受け継ぐ)とある。践祚とは皇位に即(つ)くことを意味し、践祚の後にしかるべき準備を整えて即位式を行うのが代替わりの手続きである。

また、第2次世界大戦後の昭和22年1月に公布され、「日本国憲法」と同時に施行された新しい「皇室典範」においても、「第1章 皇位継承」第4条に、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と規定されている。すなわち明治維新以後は一貫して、天皇の代替わりは現天皇の崩御によってのみ発生することになっているのである。

伊藤博文が示した、皇位継承のあり方

伊藤博文(いとうひろぶみ)著『帝国憲法・皇室典範義解』は、起草にあたった立場からの大日本帝国憲法および皇室典範の解説書である。1条ごとに懇切な説明がついているのだが、「天皇崩ずるときは皇嗣即ち践祚し祖宗の神器を承く」については、おおむね以下のように述べられている。  

「神武(じんむ)天皇以来、鏡・剣・璽(じ)の三種の神器が皇位を守護すると考えられており、即位の際には、かならずこれらの三種の神器を継承する。(中略)上古には践祚と即位の区別はなく、践祚の日に神器を奉ることによって、皇位の継承とみなしていた。「天子の位は1日も曠(むな)しくすべからず」という原則があるからである。

ただし天智(てんち)天皇(626〜671)は母の斉明(さいめい)天皇が崩御した後、皇太子のままで政務をとるという方式を選んだ(称制<しょうせい>)。天智がようやく即位したのは7年の後で、これが践祚と即位が別々に行われた初例である。

その後の歴代の天皇は、践祚の後、数年を経て即位の礼を行う場合などもあったが、践祚の際に神器を継承することは上古以来変わっていない。本条の意味するところは、天皇位に空位の日があってはならず、また神器相承こそが皇位継承の本質だということである。

また、神武天皇から舒明(じょめい)天皇にいたるまでの34代のあいだは譲位の例がない。皇極(こうぎょく)天皇(594〜661)がはじめて譲位するが、これは女帝が(しかるべき継承者の不在等の特殊な事情により)仮に皇位を保持したことから生じた事態である(継体<けいたい>天皇が安閑<あんかん>天皇に譲位したという例はあるが、譲位の同日に崩御しているので、譲位の初例には数えない)。

ところがその後、聖武(しょうむ)天皇・光仁(こうにん)天皇らが譲位したことから、次第に譲位が定例化した。さらに、「権臣の強迫」によって(皇統が分裂する) 両統迭立(りょうとうてつりつ)にいたり、その結果として南北朝の動乱が起こった。本条で、践祚は先帝崩御の後に行われると定めたのは、中古以来の譲位の慣例をあらためて、上代の恒典(一定不変の規則)に従うためである。」