2019.04.29
# 天体観測

追悼・スーパー天文学者、海部宣男さん(元国立天文台長)

世界の天文学の発展に寄与
山根 一眞 プロフィール

BH観測成功にわく中、愕然とするニュースが舞い込む

世界中がブラックホール観測成功の報にわいたが、海部さんは、どんな思いでこの大成果を見たのかを聞きたかった。

週が明けた4月15日、月曜日。

私がブラックホール観測でのアルマの貢献を急ぎ書いた記事がネット上に公開された直後、愕然とする報せが飛び込んできた。

海部さんが逝去された。

国立天文台は、こう伝えた

海部宣男国立天文台名誉教授が、2019年(平成31年)4月13日(土曜日)午後0時8分、すい臓がんのため逝去されました。75歳でした。

海部さんは、1999年に国立天文台が初めて海外に建設した望遠鏡「すばる」の完成を手にしたあと、2000年に国立天文台長に就任(2006年まで)。後、2012年から2015年まで国際天文学連合(IAU)会長として世界の天文学の振興に尽力された。

天体の観測は、1609年にガリレオ・ガリレイが自作した光学望遠鏡で始まり、長いこと可視光による観測が続いたが、1931年、米国のジャンスキーが天の川のいて座方向から届く強い電波を観測したことで、天体が発する電波を観測するまったく新しい天文学、電波天文学が誕生した。日本では1948年に太陽から届く電波の観測が始まっていたが、日本の電波天文学はお寒い状態だった。

あらゆる分子は異なる波長の電波を発しているため、電波望遠鏡を使えば天体を構成する物質が特定できる。また、光学望遠鏡で見る天体は、いわば熱く燃えているため光を発しているが、星や惑星の材料である塵やガスは極低温の冷たい世界だ。これは光学望遠鏡では観測ができないが、電波望遠鏡は宇宙の多くを占める冷たい世界を見ることが可能だ。

アルマ開所式当時の国立天文台長(2012~2018年)、林正彦さんは、「電波天文学の登場は、有線の黒電話の時代からインターネットが登場した以上の大イノベーションで、若い天文学者たちがわくわくする思いで電波天文学を目指した」と語っていたが、海部さんはそういう若い天文学者の1人だった。

1960年代、東京大学基礎科学科の学生時代に海部さんは、東京・三鷹市の東京天文台(後、国立天文台)に助教授(当時)の赤羽賢治さんを訪ね「電波天文学を目指したい」と話したが、「いやー、日本では電波天文学はできませんよ」とあしらわれたと『電波望遠鏡をつくる』(海部宣男、大月書店)に書いている。東京天文台の電波グループの拠点は、バラック小屋とモルタル平屋で、10mのパラボラアンテナ(太陽電波望遠鏡)などがあるだけだった。

だが海部さんは、この天文学のイノベーションに果敢に挑戦し続け、国立天文台の電波望遠鏡のチームのコアとして、1981年、長野県の野辺山に直径45mという世界最大のミリ波電波望遠鏡を完成させる。日本の電波天文学は、いきなり世界最高のレベルを手にしたのだ。

海部さんが当時を振り返り、「天体に有機物が存在することを初めて電波望遠鏡でとらえたのは私なんですよ」と、胸を張るかのように話してくれたことが忘れられない。

「国内」最大の天文学プロジェクトの次が、「海外」に日本が独自に建設した光学赤外線反射望遠鏡「すばる」、そして初の大規模「国際協力」プロジェクトである「アルマ望遠鏡」へと日本の天文学を大きく躍進させたエネルギーには舌をまく。

私にとって海部さんは、まさにスーパー天文学者だった。

かつての仲間が見守った最後の日々

海部さんともにアルマの実現に尽力していた1人が、海部さんの後継国立天文台長(2006年~2012年)の観山正見さんだ。

観山さんはコンピュータを駆使する理論天文学が専門だが、それは電波望遠鏡が得たデータを「見えるもの」にするために欠かせない。計画途上のアルマの観測目標をミリ波より波長が短いサブミリ波へと大きく転換させたのも観山さんだった。

【写真】観山正見さんと
  国立天文台長を退任後の観山正見さん(右)を東広島市に訪ねた。それは、海部さんが逝去された日の3年前の同日だった(写真・山根事務所)

国立天文台を退職後、東広島市の生家、長圓寺の住職も務めている観山さんが、海部さんがすい臓がんに見舞われていると知ったのは2016年4月だった。

「海部さんから届いた私と林台長(当時)宛の長いメールには、すい臓がんでもあまりよい場所ではなくてと記してありました。林さんとお見舞いに行きましたが、9月に長時間の手術を受け、無事に成功したと奥様の重美さんからメールをいただきました」

「退院後は小康状態が続いていたようですが、転移が見つかったとの報せがあり、2018年12月頃の連絡では、秋口に吐血されたとのことでした。そして昨年末、海部さんは天文学会の数名宛へのメールで、来年の桜は見られないかもしれないなあ、と伝えています」

「今年の1月4日、自宅にお見舞いに伺うと、ベッドではなくソファに座って、自宅での緩和医療、痛みを抑えながらの治療で過ごすことにしたんだ、とおっしゃっていましたが、4月13日の土曜日に75歳で亡くなられました」

海部さんは、3日前のブラックホールの画像の発表を見届けた上で、最高の満足感を抱いて旅立たれたに違いない。

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