『砂の器』映像化4作を見比べてわかる「若者の痛み」の意外な変化

未来を信じられない若者たち
堀井 憲一郎 プロフィール

中居正広も、中島健人も、その絶望ともいえる孤独を演じなければいけなかった。

主人公(格)の天才的な音楽家が孤独であることは、もともとこの作品の主題でもある。

ただ昭和のころは、彼らは表面的には孤独に見えなかった。若い芸術家と群れたり、また目立つ存在としてマスコミに取り上げられたり、見た目は「賑やかで元気そう」に描かれている。でも芸術家である当人はほんとうは孤独である、という描写だった。

21世紀はちがう。

おそらく「若者が孤独である」というのは、言葉にするまでもない前提になっている。言ってしまえば、20世紀の芸術家が感じていた孤独は、21世紀の若者は最初から抱いている、ということになる。21世紀の悩みはそこにあるのだろう。

その状況での芸術家の孤独を演じるのだから、中居正広や中島健人はどうしてもシニカルにならざるをえない。仲間といるときから、すでに突き放した冷たさを抱いていないと孤独を感じさせられない。なかなかむずかしいところだ。そしてそれは21世紀の若者みんなが抱いている不安でもある。

21世紀の若者は、べつだん、ひとりでいたいわけではない。

でも自分の芯に近寄られることを、とても嫌う。自分のセーフティエリアを守ることが大事だと信じて生きてきた。大人になったからと言って、それが崩せるわけがない。そこが昔の若者とは違う。

 

「泣き方」の違いから見えること

今年の『砂の器』では音楽家役の中島健人も、ベテラン刑事役の東山紀之も派手に泣いていた。

映画の加藤剛や丹波哲郎も涙を見せるのであるが、それとはちょっと違う。わかりやすく訴えるように泣くのだ(加藤剛は汗にも見えるような涙を流してるだけであったし、丹波哲郎は目頭を押さえる、という泣きかたであった)。

「砂の器」のメインの役者がなりふりかまわず泣くようになったのか、と少し感慨深かった。

でも中島や東山の涙も弱さの涙ではないだろう。

「先行きが見通せないこと」に対する悲しみに泣いているよう見えた。泣き方が大きいのは、世相への哀しみであり、若さに対する悲痛感だったからではないか。

原作小説をふくめて5つのバージョンの『砂の器』を見て(ひとつは読んで)、ここに描かれる「若さ」の変遷を見つめていて、そうおもった。『砂の器』は「人間の業」を描いた作品だから、映像化されると、その時代の「若者の痛み」も同時に表出してしまうのだ。

中島賢人の「和賀英良」は2019年の若者の痛みを表現していたのである。ぼくはすごく良かったとおもう。

またそう遠くない将来にぜひ映像化して欲しい。