ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。
日本の出版界は、大正デモクラシーの終焉のなか活況を呈していた。関東大震災後には、そこに空前絶後の「全集ブーム」が巻き起こった。出版社が驚くほどの安価で全集を売り出したのである。このブームはさらなる別の動きに繋がっていくーー。
第六章 雑誌王の蹉跌──円本と報知新聞(1)
『改造』について語っておかなければならない。
今さら言うまでもなく、大正から昭和にかけ、『中央公論』と並び称された綜合雑誌の雄である。創刊号は大正8年(1919)4月に発売された。執筆陣には与謝野晶子、土井晩翠(ばんすい)、幸田露伴、正宗白鳥など錚々(そうそう)たる面々が顔をそろえた。
しかし、売れなかった。
『改造社と山本実彦』(松原一枝、南方新社刊)によると、2万部ほど刷って6割以上の返品があった。2号も3号も2万部刷った。3号は谷崎潤一郎の「青磁色の女」(のち「西湖の月」と改題)、田山花袋の「土蔵のかげ」を掲載したが、1万3000部の返品があった。
返品の山を見て、改造社社長の山本実彦(さねひこ)は、
「もうこれ以上は続けられない。廃刊にしよう」
と言った。しかし、編集担当の横関愛造(よこせき・あいぞう)と秋田忠義(あきた・ただよし)の2人が反対して、こう言った。
「四号だけ、自分たちに編集を全部任せてください。山本さんはそれにオーケーを出すだけで。廃刊にするなら、そのあとにしてください」
「いったいどういう編集に変えるのだね」
「これまであまりふれなかったこと、社会はどういう方向に動くべきか。日本の思想界はどう動いているか、という社会思想を中心にしたいのです」
山本は、ふむ、といってしばらく黙っていたが、
「わたしは口出しはせん。思うようにやればいい」
と、きっぱり言ったという。
『改造』4号は、「労働問題・社会主義」号となった。労働問題も社会主義批評も、当時としては急進的な思い切った編集である。それが、発売2日で3万部売り切れた。
以下、5号から2年間、ほとんど売り切れの状態がつづき、『改造』は『中央公論』の民本主義路線よりさらに左の潮流を代表する綜合雑誌となった。
が、大正12年の大震災で、芝区愛宕下町(あたごしたちょう)(現在の港区新橋3丁目)の本社と印刷機と80万冊の書籍をことごとく焼失した。改造社が被った損害額は約120万円にのぼった。さらに震災後の不況が深刻化するにつれ、改造社の経営状態は悪化した。
大正13年春、改造社は初めて編集者を公募した。初任給100円。東京帝大出の初任給が官庁や一流会社でも60円程度だったから、破格の給料である。不況だからこそ優れた者には高給を払う価値があるというのが山本の考え方だった。
700人の応募者の中からただ一人、藤川靖夫が採用された。