空母「瑞鶴」の飛行甲板から発艦する零戦二一型

歴戦の名パイロットは、なぜ沈黙を破って戦場を語り始めたのか

戦後は幼児教育に生涯を捧げる

零戦搭乗員として、真珠湾作戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル攻防戦など最前線で戦い続け、何度も死地をくぐり抜けてきた原田要さん。戦後は平和を願い、幼児教育に生涯を捧げてきた。

戦後50年を迎える頃まで、戦時中のことは一切語ることはなかったが、あることがきっかけで、戦場の過酷さ、悲惨さを語り残すことを決意する。

それは、湾岸戦争での、まるでヴァーチャルゲームのような映像と、それに対する若者たちのあまりに軽すぎる反応を見聞きしたことだった。

 

みんな本当は死にたくなかった

3年前の平成28(2016)年5月3日、一人の元零戦搭乗員が、99歳で天寿を全うした。原田要さん。満100歳の誕生日を約3ヵ月後に控えていた。

原田さんは大正5(1916)年8月11日、長野県生まれ。長野中学校(現・長野高校)を中退、海軍を志願して昭和8(1933)年5月、横須賀海兵団に水兵として入団した。のちに航空兵を志望、部内選抜の操縦練習生を昭和12(1937)年、首席で卒業し、選ばれて戦闘機搭乗員となった。

昭和16(1941)年、太平洋戦争開戦時には空母「蒼龍」に乗組み、機動部隊の上空直衛として真珠湾作戦に参加。その後、昭和17(1942)年6月のミッドウェー海戦では乗艦が撃沈され、洋上に不時着し漂流。同年10月には、空母「飛鷹」零戦隊の一員としてガダルカナル島上空で敵戦闘機と空戦、正面から刺し違え、重傷を負い不時着、九死に一生を得るなどの壮絶な戦いを経て、内地の航空隊で教官として終戦を迎えた。

原田さんは戦後、幼稚園を経営、幼児教育に後半生を捧げた。

「この子たちに戦争の悲惨さは二度と味わわせたくない、ほんとうにそう思います。戦争で死んだ仲間たちも、平和を望んで国のためにと死んでいったんです。みんな、本当は死にたくなかったんだからね……。新しい日本を担う子供たちが、社会の一員として幸せに活躍できる下地を作る、それが結局は平和につながっていくと自負しているし、戦友たちの遺志を受け継ぐことになるんじゃないかと思っています。

――それと、相手を倒さなければ自分がやられる戦争の宿命とはいえ、自分が殺した相手のことは一生背負って行かなきゃならない。まったく、戦争なんて、心底もうこりごりですよ」

幼稚園の園長となった元零戦搭乗員・原田要さん(撮影・神立尚紀)

原田さんとの出会いは、ふとした偶然からだ。戦後50年を迎えた平成7(1995)年夏、神田神保町の古書店で、たまたま手に取った海軍関係の名簿にその名を見つけ、インタビューを申し込んだのが最初である。

手紙の返信によると、原田さんは生まれ故郷の長野市郊外で、幼稚園を経営しているという。勇猛果敢な零戦搭乗員が、いまは子供たちに囲まれて暮らしている――戦いの軌跡もさることながら、そのコントラストに心を惹かれた。

「戦争のことは思い出したくないから、これまでほとんど人に話してこなかった」

と言う原田さんが、私のインタビューに応えてくれたのは、戦後50年の節目を意識したことと、もう一つは、イラクによるクウェート侵攻を機に、国連が多国籍軍の派遣を決定、1991年1月17日、イラク攻撃を開始した湾岸戦争のニュース映像を見た若い人が、

「ミサイルが飛び交うのが花火のようできれい」
「まるでゲームのようだ」

などと感想を漏らすのを聞き、

「冗談じゃない、あのミサイルの先には人がいる。このままでは戦争に対する感覚が麻痺して、ふたたび過ちを繰り返してしまうのではないか」

と危機感を持ち、なんらかの形で戦争体験を語り伝えないといけない、と意識が変わったからだという。

「私は戦争中、死を覚悟したことが三度ありました。最初はセイロン島コロンボ空襲で、敵機を追うことに夢中になって味方機とはぐれてしまい、母艦(空母)の位置がわからなくなったとき。二度めはミッドウェー海戦で、母艦が被弾して、やむなく海面に不時着、フカ(鮫)の泳ぐ海を漂流したとき。そして三度めは、ガダルカナル島上空の空戦で被弾、重傷を負い、椰子林に不時着してジャングルをさまよったとき。

相手を倒さなければ、自分がやられてしまうのが戦争です。私は敵機と幾度も空戦をやり、何機も撃墜しました。撃墜した直後は、自分がやられなくてよかったという安堵感と、技倆で勝ったという優越感が湧いてきます。しかしそれも長くは続かず、相手も死にたくなかっただろうな、家族は困るだろうな、という思いがこみ上げてきて、なんとも言えない虚しさだけが残ります。私はいまも、この気持ちをひきずって生きているのです」