極右・ルペンに「共感する」と言う学生に、政治学はどう向き合えるか

「長い60年代」の思想の限界と可能性
山崎 望 プロフィール

現状の行き詰まり感

さて、こうした前提に立って、現代の政治の構図を整理し直すと、随分見通しが良くなる。

第二次世界大戦以来、各国に定着して世界に拡大していった自由民主主義(代表制民主主義+福祉レジーム)に対して、福祉レジームに異議を申し立て、私的領域における「個人の解放」を掲げる意味で共通性を持つ新自由主義と第二波フェミニズムという「長い60年代」に起源(もしくは支配的な思想に至る転回点)を持つ思想が影響力を強めている。

他方では公的領域における「代表批判」を掲げる意味では共通性を持つ権威主義とラディカルデモクラシー論、ポピュリズムという「長い60年代」に起源を持つ思想が影響力を強めている。

 

しかし、見通しはよくなっても、現状は行き詰まり感が漂う。

冒頭の学生の発言から筆者が触発されたのは、現在の学生が50年ほど前に起源を持つ自由民主主義を批判する思想に取り巻かれていること(本人の自覚は別として)。そして一つの社会の中で、こうした規範の「分裂」を調整するアイデアや仕組みがなく、それを考える十分な資源(時間、場所、知識、精神的余裕、金銭など)を奪われ、機能不全に陥り続ける自由民主主義の社会の中で生きている、という現実である。

「個人の解放」を叫んだ第二波フェミニズムは、代表制民主主義と福祉レジームを蝕む新自由主義に取り込まれつつある側面も見受けられる。競争に価値を見出し平等に批判的になる卒業生は多い。

その裏側には自己責任論にさいなまれて困窮する卒業生がいる。押し付けられる役割に抗議するフェミニズムに関心を持った学生の一定数は、家族での役割から解放され、新自由主義の社会で活躍する人材になる。

〔PHOTO〕iStock

また欧米の若者が新たな社会主義や民主主義を模索している、といった報道はあるものの、市民社会を基礎に熟議を通じて合意を形成したり、多様な運動の連携により寡頭支配に対抗する左派ポピュリズム(シャンタル・ムフ『左派ポピュリズム』参照)など、ラディカルデモクラシーの劣勢は否めない。

むしろ政治的な自由を弾圧し、多数派の支持を旗印に独裁や少数派支配へと道を進める権威主義や右派ポピュリズムの方が力を強め、「民主主義の死に方」(レビツキー&ジブラット『民主主義の死に方』参照)や「リベラルの衰退」が着目されている。

「理性的な熟議による合意形成」や「多様な運動の連携による、寡頭制との対峙」とレポートに書いた優秀な学生の一部は、「安倍一強」支持にとどまらず、プーチン大統領に心酔し、シンガポールや中国を礼賛するに至る。

「長い60年代」における「個人の解放」と「代表批判」という思想のラディカルさに魅了されながらも、現実生活では私も新自由主義に迎合するように「競争的資金」の獲得に奔走し、時には学内の仕事でさえ権威主義の「有効性」を実感し、ポピュリストを支持する世界の民衆に共感しさえする。同時にデモに参加し、自由民主主義の(批判ではなく)「保守」をコールする。

個人の内面でも社会全体でも、それを束ねる規範が「分裂」した現代、政治理論に何ができるのか。リベラリズム、ラディカルデモクラシー、フェミニズムなどを中心にアカデミズムにおける政治理論の発展は目覚ましい。その傍らで、アカデミズムの「外」との対話は十分だろうか。「内」と「外」の交通を可能にする言葉が早急に求められている。

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