極右・ルペンに「共感する」と言う学生に、政治学はどう向き合えるか

「長い60年代」の思想の限界と可能性
山崎 望 プロフィール

その前に私からは東欧諸国の「民主化の後退」や、権威主義体制の解説も行った。しかし一部の学生からは「良い独裁もあり得る」「権威主義の方が決定が早い。会社でも今、求められているのでは?会社に民主主義はないけれど、それが当たり前」「秩序が大切。『変な奴』が出てこない中国やロシアは台頭している」といった意見が出た。 

他方では政治家のみならず市民による「熟議」を行う「ミニパブリックス」や、「ウォール街を占拠せよ」の動画をみた学生の見解も大きく割れた。

一方では「運動に参加している人は、私たちと同じ感じ。でも占拠とかデモに行く気持ちはわからない」「選挙とか大切だけど面倒。しかし熟議はもっと面倒」といった意見。

他方で「デモをして政治家の目線を変えるしかない」「占拠はやりすぎ、と思ったけれど、自分もあの立場になったらやる」「政治家任せでなくて、自分で意見がいえる熟議はゼミみたいで面白い」といった意見。

政治学の観点からまとめるのであれば、公的領域では自分を代表してくれない、と考える代表制民主主義には不信の目を向ける学生は少なくない。そうした反応が、一方では権威主義やポピュリズムに共感する意見(ルペンに共感)に繋がり、他方ではミニパブリックス、デモ、占拠など直接行動や熟議に共感を語る意見に繋がる。ここでも、規範の「分断」が確認できる。

代表制+福祉レジームへの違和感

こうした言葉の群れをどう考えれば良いのだろうか。これまで紹介してきた言葉が、若年層や国民を代表しているのか。それを明らかにするためには、質的・量的調査に加え、それでも捉えきれない要素まで加味した専門性の高い研究が不可欠だろう。

ここでは著者が触発された問題意識に即して論を進めていこう。

確認しておくと、これら学生の言葉における対立は、戦後的な自由民主主義(代表制民主主義+福祉レジーム)v.s.その批判者たちという構図になっていることだ。

一方で、戦後的な福祉レジームを重視する学生がいる。つまり彼らは、「男性の稼ぎ手と専業主婦」に象徴される古い家族観を大切にし、福祉国家のもたらす安心に共感する。戦後、こうした福祉レジームは、公的領域においては、代表制と極めて相性がよかった。

他方で、それに批判的な学生たちもいる。彼らの言葉からは、新自由主義や権威主義、(右派)ポピュリズムへの共感、さらに、第二波フェミニズム(職場における平等などを求めるフェミニズム)やラディカルデモクラシー論(直接参加を求める民主主義論)への共感も読み取ることができる。繰り返しになるが、こうした思想群に共通している点は、自由民主主義、つまり代表制民主主義と福祉レジーム(戦後的な福祉国家)に対する批判である。

こうした対立の構図を頭に入れつつ、とくにここで注目したいのは、後者、つまりフェミニズムや権威主義、新自由主義、ラディカルデモクラシーなどへの共感である。

こうした考えに共感する学生は、代表制民主主義や福祉レジームが存在していながら、それがよく機能していない、と捉えているのかもしれない。そうした「不満込み」で現実を受け止めつつ生活する中で、我々の社会は、気が付きにくい形で、少しずつ自由民主主義ではない別なもの──権威主義や新自由主義──へと置き換わっている(replace)のではないだろうか。

 

1960年代の思想

では、こうした感覚の源泉はどこに求められるのか。本論で着目したいのは「1960年代」の自由民主主義に対する批判者の諸思想である。

とりわけ「1968年」はテト攻勢(ベトナム戦争)とプラハの春が起き、米ソ二大国の権威が揺らぎ、世界各地でパリ五月革命をはじめ学生運動、民主化運動や民族解放運動が起きた。

近年、「1968年」に象徴される一連の政治/社会運動や事件をより長いタイムスパンから捉えて、現代へ与えた影響を考える「長い60年代論」と呼ばれる研究がある。

ここでは、筆者が「長い60年代」に特徴的であると考えている動向を二つ挙げよう。一つは「個人の解放」、もう一つは、「代表批判」の動向である。

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