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彷徨いながら書くーー旅好きの自分が「小説」という旅に出るまで

旅には精神がある

不意に襲いかかる呪い

旅に取り憑かれている。

 

二十四歳のころ、はじめて自分で金を貯めて海を渡り、インドやアフガニスタンを回ったあとのことだ。残業中にふと生じる空白の時間や、金曜の夜、ベッドに横になった際などにそれは襲った。

旅先で見た景色や、そこで出会った人々が、不意に、猛烈な抗いがたい渇きとともに蘇るのだ。何かが命じた。おまえはそこにいていいのか。旅に出ろ。内面の景色を増やせ──。

これが呪いでなくてなんだろう。

見ることや、経験することが目的であったはずだ。しかしぼくが得たのは経験以上に、呪いめいた終わらない渇望であったのだ。

おそらくそれは、心のどこかで居場所を見出せずにいる放浪者が、旅先の景色に居場所を仮託していたのだろうと、いまとなっては想像もつく。

ただ、それだけでは説明がつかない。いまなお定期的に旅に出ていかないと、たちまち精神がだらしなく弛み、くたびれたスポンジみたいに脳を満たしていくからだ。

そう、旅には精神がある。もう少し丁寧に言い直すなら──旅に精神を見出してしまう一部の人間が、おのおのの旅先に刹那幻視する、その精神がぼくは好きなのだ。

そういえば、旅をすることと小説を書くことは似ていると、ミステリ作家の梓崎優さんがどこかで書いておられた。いいことをおっしゃるなと思う一方、はたと気がついたことがあった。

旅好きの自分は、しかし旅をするように書いているだろうか?

自分で言うのもなんだけれども、ぼくは自分の仕事のすべてをコントロール下に置こうとするきらいがある。できあがった小説がプロットを大きく逸脱することもない。いわばそれは、パッケージ・ツアーのようなものではないか。

パック旅行が悪いというわけではなく、単に性質としてそうなっている。ぼくにとって、これは由々しき事態である可能性があるのだ。