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宮本武蔵の教え――勝負を決めるのは「平常身」

【5分de名著】宮本武蔵『五輪書』訳注:鎌田茂雄 ①
どこかで見たようなタイトルで、現代新書の姉妹シリーズ「講談社学術文庫」からお届けする新企画「5分de名著」。「いちどは読まねば」と思ってはいた東西の名著をスキマ時間に「チラ読み」していただこうという試みです!
最初にお読みいただくのは、剣豪・宮本武蔵が自らが命がけで極めた兵法の極意・真髄をまとめた『五輪書』。近年ではビジネスマン必携書とも言われるこの名著を読んでみましょう。

「水の巻」より「兵法身なりの事」

一 兵法の身なりの事

身のかゝり、顔をうつむかず、あふのかず、かたむかず、ひずまず、目をみださず、ひたひにしわをよせず、まゆあひにしわをよせて、目の玉うごかざるやうにして、またゝきをせぬやうにおもひて、目をすこしすくめるやうにして、うらやかに見ゆるかほ、鼻すぢ直にして、少しおとがひを出す心なり。
くびはうしろのすぢを直に、うなじに力をいれて、肩より惣身(そうみ)はひとしく覚え、両のかたをさげ、脊(せ)すぢをろくに、尻を出さず、ひざより足先まで力を入れて、腰のかゞまざるやうに腹をはり、くさびをしむるといひて、脇差(わきざし)のさやに腹をもたせて、帯のくつろがるやうに、くさびをしむるといふをしへあり。惣而(そうじて)兵法の身において、常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。能々(よくよく)吟味すべし。

 

〔訳文〕
体の姿勢は、顔はうつむかず、あおむかず、かたむかず、曲げず、目を動かさず、額にしわをよせず、眉の間にしわをよせ、目の玉を動かさないようにして、またたきをしないような気持で、目をやや細めるようにする。

おだやかに見える顔つきで、鼻すじはまっすぐにして、やや、おとがいを出す気持で、くびはうしろの筋をまっすぐにして、うなじに力を入れて、肩から全身は同じものと考える。

両肩を下げ、背すじをまっすぐにして、尻を出さず、ひざから足先まで力を入れて、腰がかがまぬように腹を出す。くさびをしめるといって、脇差のさやに腹をもたせて、帯がゆるまぬように、くさびをしめる教えがある。

すべて兵法にあっては、平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすることが大切である。よくよく研究しなければならぬ。

〔参考〕
④一 身のかゝりの事
身のなり、顔はうつむかず、余りあふのかず、肩はさゝず、ひづまず、胸を出さずして、腹を出し、こしをかゞめず、ひざをかためず、身を真向にして、はたばり広く見する物也。常住(じょうじゅう)兵法の身、兵法常の身と云事、能々吟味在るべし。

⑥一 目付の事
目を付ると云所、昔は色々在ることなれ共、今伝る処の目付は、大体顔に付るなり。目のおさめ様は、常の目よりもすこし細き様にして、うらやかに見る也。目の玉を不動、敵合近く共、いか程も、遠く見る目也。其目にて見れば、敵のわざは不及申、左右両脇迄も見ゆる也。観見(かんげん)二ツの見様、観の目つよく、見の目よわく見るべし。若(もし)又敵に知らすると云ふ目在り。意は目に付、心は不付物也。能々吟味有べし。

[訳者解説]柳生宗矩が説く「平常心」

〔付記〕
どんな武芸でも平常心ということが大切なのである。柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は『活人剣』下の中で、「常の心」をつぎのように説く。

常の心と云は、胸に何事をも残さず置かず、あとははらりはらりとすてて、胸が空虚になれば、常の心なり。

胸に何事ものこさず、跡を少しものこさないこと、それが常の心であると説く。常の心こそ、無心なのである。人の前で揮毫をたのまれたような場合、常の心がなく緊張すれば手が震えてくることや、大勢の人の前で話をすれば声が震えることがあるように、常の心を失うならば、どんなことでもできなくなるものである。禅では「平常心是道」というが、平素の心を失わないことが肝要である。

この平常心をもって一切のことをする人を、柳生宗矩は「名人」と呼んでいる。どんなことをしても、しようとする心を外にあらわすことなく、何事かをよくしようと思う心もないのが平常心なのである。修行が未熟なうちは、よい技をしよう、うまく動こうと思うからかえってできなくなる。
稽古をかさねてゆけば、よくしよう、うまくやろう、というような心は遠のいて、どんなことをしても、思わずして無心に、無思に、これを行なうことができるようになる。心に意識したり、執着したりすることがなく、自然に身体も手も足も動いてゆくとき、その名人の心は無心であり、平常心というのである。

兵法において技がきまるのは、無心のときでなければならない。無心というと、一切、心がないのではない。平常心を保つことが無心なのである。

兵法の勝負をするのでも弓を射るのでも、常の心でする必要がある。心がたかぶったり、邪心が起こったり、一ヵ所にとどまったりしたならばこれを行なうことができない。常の心で弓を射ること、常の心で兵法を行なうこと、この常の心を無心というのである。

動転した心、怒った心、勝負を争う心でやれば、兵法は失敗する。常の心、無心の心でやってこそ、真の技を無限に発揮することができるのである。

道者の心を鏡のように保つことが無心になることである。鏡はきれいな花を映しても、鏡自体の価値が増すものではなく不動であり、きたない犬の糞を映しても、鏡自体の価値が減ずるものでもない。どんなものを映しても、鏡はそれを映しながらも自らをかえることはない。鏡こそ真の不動智であり、無心である。