22年前に殺された母の仇討ち殺人が共感を呼ぶ「中国の司法事情」

実は同様の復讐が絶えることなく
北村 豊 プロフィール

世論は仇討ちに共感?

中国で仇討ちというと思い出されるのが春秋時代末の紀元前485年に死去したとされる伍子胥(ごししょ)である。

彼は楚国の武人で、楚国のお家騒動で父と兄が平王に殺されると、楚国から逃げて呉国に身を寄せた。呉国では呉王・闔閭(こうりょ)の信任を得て国力の充実に努め、後に呉国を助けて楚国を攻め滅ぼした。

呉国の将軍として楚国の地へ凱旋した伍子胥は、すでに葬られていた平王の墓をあばき,その屍(しかばね)を鞭(むち)打って父と兄の仇を討った。この故事から「死んだ人の言行を非難する」という意味の「死屍(しし)に鞭打つ」という成語が生まれたことは有名である。

一方、中国語の別の言葉に「“君子报仇,十年不晚(君子の仇討ちは10年後でも遅くはない)”」というのがある。“君子”は人格者を意味するから、張扣扣に当てはまるとは言えないが、苦節22年で母親の仇討ちを行ったことは、決して遅くないということになるのかもしれない。

 

張扣扣は一貫して母親を殺したのは王家の次男である王富軍だと主張していたが、2019年1月8日の第1審で、従来の主張を変えて母親を殺したのは彼が殺害した三男の王正軍であることを認めたのだという。

母親が殺害された現場で全てを目撃していた張扣扣が主張を変えて、王正軍が真犯人だと認めたのは何故なのか。

張扣扣が王家父子3人を殺害した時に王富軍は不在で難を免れた。王家父子4人を殺害して仇討ちを完遂させたかった張扣扣にとっては、母親に直接手を下した王富軍を打ち漏らしたことは痛恨の極みだったろう。

しかし、仇討ちの幕がすでに下りている以上は、王富軍の身代わりとなった王正軍を殺したことで仇討ちの完結を確認したのかもしれない。

2019年1月8日に張扣扣を死刑に処すとの1審判決が下ると、民間では“刀下留人(死刑執行待った)”と銘打った署名運動が展開されて、死刑執行の猶予を求める声が上がった。

それと同時に、ネットユーザーがインスタントメッセンジャーアプリ“微信(WeChat)”を通じて“刀下救人(死刑執行停止)”のアンケート調査を行った。1月9日午後5時までの集計では、「死刑は重すぎる」が9118票で、「死刑は当然」はわずか396票に過ぎなかった。

当該アンケート調査は当局によって1月10日早朝にネット接続を打ち切られたが、1996年12月の裁判が公正な判決を下していれば、張扣扣が仇討ちによってその人生に36年目で終止符を打つ必要はなかったと、中国国民の多くが考えていることは明白な事実である。

なお、参考まで先に述べた、ほかの復讐劇の概要を紹介する。

楊佳の事例:上海市内で自転車泥棒の嫌疑をかけられ、連行された公安局で冤罪にもかかわらず暴力的な取調べを受け、子種を作る睾丸に致命的な損傷を受けた。これに報復すべく、2008年7月1日に上海市公安局閘北分局を単独で襲撃して警官6人を殺害した。<死刑執行:2008年11月28日>

賈敬龍の事例:河北省石家荘市の農村で住宅を強制的に解体され、それによって許嫁との結婚を取り消されたことで生きる目標を見失い、2015年2月19日に村の実力者で住宅解体を命じた村党委員会主任を村民の目の前でネイルガン(釘打ち機)によって殺害した。<死刑執行:2015年11月24日>

夏俊峰の事例:遼寧省瀋陽市において妻と2人で違法な露店を営んでいたが、2009年5月16日に都市管理局員に摘発され、連行された事務所内で暴力的な取調べを受けて頭部を負傷した。これに反撃すべく隠し持っていたナイフで局員2人を刺殺し、1人に重傷を負わせた。現場から逃走したが間もなく逮捕され、正当防衛を主張したが認められなかった<死刑執行:2013年9月25日>

張扣扣もその名を彼らと同列に連ねることになるが、この原稿を執筆している4月18日時点では張扣扣の死刑執行が行われたという中国国内の報道は確認されていない。

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