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22年前に殺された母の仇討ち殺人が共感を呼ぶ「中国の司法事情」

実は同様の復讐が絶えることなく

注目の死刑判決

2019年4月11日、中国社会を震撼させた“張扣扣(ちょうこうこう)”による故意殺人および故意器物損壊事件に対する陝西省高級人民法院(高等裁判所に相当)による第二審が、同省漢中市中級人民法院(地方裁判所に相当)において公開で開廷され、一審の死刑判決を維持するとして、張扣扣による控訴を却下する裁定が下った。

陝西省高級人民法院は判決の中で、「張扣扣は傷害致死によって母親を亡くしたことに対して恨み骨髄であると同時に、仕事や生活も思い通りに行かず、心理的なバランスが崩れたことで犯行に及んだ」と述べたが、36歳の張扣扣は母親の仇(あだ)討ちを行ったもので、社会に対する報復ではなかったと強く反論したという。

張扣扣は、1983年1月6日に、陝西省の西南部に位置する漢中市の南鄭区新集鎮に属する王坪村の農家に生まれた。

彼は父親の張福如(ちょうふくじょ)と母親の汪秀萍(おうしゅうへい)の間にできた2番目の子供で、彼にはすでに他家へ嫁いでいる姉の張麗波がいる。

2001年に中学校を卒業した張扣扣は徴兵に応じて軍人となり、2001年から2003年までの丸2年間を新疆ウイグル自治区の武装警察官として服務したが、徴兵を解かれた後は各地を転々として出稼ぎを続け、最終的に2017年12月に生まれ故郷の王坪村へ戻った。

その張扣扣が、それから2カ月後の2018年2月15日に、近所に住む王家の父子3人を殺害するという事件を引き起こしたのだった。

この事件は張扣扣が22年前に王家父子によって殺害された母親(汪秀萍)の仇を討ったものであった。

このため、この張扣扣による殺人事件は、メディアによって“為母報仇案件(母の仇討ち事件)”と命名されて大きく報じられ、中国中に知られることになった。

 

怨恨の中身

張扣扣の実家である張家と王家は近所にもかかわらず、日頃から犬猿の仲で、いさかいが絶えなかった。

1996年8月27日、農作業を終えて自宅へ帰る途中の汪秀萍は、王家の次男である王富軍と出くわした。その日、虫の居所が悪かった汪秀萍は王富軍の顔を見るや否や唾を吐きかけた。これに怒った王富軍は汪秀萍の顔に平手打ちを食らわした。頬を叩かれて激高した汪秀萍が王富軍にしがみつくと、王富軍は汪秀萍の首を締めた。

この状況に気付いた父親の王自新と三男の王正軍が現場へ駆け付け、王家父子3人が汪秀萍を取り囲んだ。

当時13歳だった張扣扣はたまたまその場に居合わせたので、母親が危険だと判断して自宅へ駆け戻り、父親の張福如と姉の張麗波に母親の急を知らせた。

最初は冗談だと思っていた2人が彼の剣幕に押される形で現場へ駆け付けると、汪秀萍は王家の3人に囲まれて殴られていた。大の男3人が相手では勝てるはずながないと判断した張福如は汪秀萍に逃げるよう促したが、汪秀萍は傍に落ちていた長さ1m余りの鉄棒を拾うと王正軍の左前額部と左顔面に打撃を与えた。

王正軍が頭から血を流してうずくまると、激高した父親の王自新は「殺してしまえ」と叫び、これに応じた王富軍が家から持ってきた棍棒で汪秀萍の後頭部を痛打した。打撃を受けてその場に崩れ落ちた汪秀萍は人事不省となり、手当の甲斐もなくその夜の22時頃死亡したのだった。

母親を殺された張家は王家に対して賠償金4.2万元(約70万円)の支払いを要求すると同時に、加害者の王富軍を死刑に処し、殺害を指示した王自新を懲役刑に処すように要求した。

1996年12月5日、この事件に対して南鄭県人民法院(下級裁判所)が下した判決は、当時17歳で未成年だった王正軍を「故意傷害致死罪」で懲役7年に処し、その後見人である王自新に対して経済損失として葬儀代などの経費を含めた9639元(約16万円)を張家へ支払うよう命じただけあった。

張家は9639元を受け取ったが、経費を差し引いて手元に残った実質的な賠償金は1500元(約2万5000円)だけだった。汪秀萍の命はたった1500元の価値しかなかったのだ。

不思議なことに、汪秀萍を殺害した真の加害者である王富軍は何ら罰せられることなく無罪放免となり、未成年であることにより刑の軽減が可能な王正軍が身代わりになったのだった。しかも、王正軍は収監から3年後には刑期7年の半分未満で繰り上げ釈放されたのだった。

それには理由があった。事件当時、王坪村は「廟壩鄉」に属していたが、王家の長男である王校軍は廟壩鄉の党政府弁公室主任の地位にあり、2年後には廟壩鄉の副郷長に昇進した。王校軍はその地位の権力を活かして、南鄭県の公安局、検察院、法院(裁判所)などの関係者を買収し、王家に有利な判決を下すよう要請すると同時に、王坪村の村民を買収して汪秀萍に不利な証言をさせたのだった。

王校軍は未成年者である王正軍を身代わりとして刑の軽減を図り、村人たちに王自新と王富軍が殺害に関与していない旨を偽証させたのだった。