Photo by gettimages

東大教授が解説!「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ

話題の読解「完全版」

新しい年号が「令和」と定まりました。

典拠の文脈を精読すると、〈権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない〉という、おそらく政府関係者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてきます。この点について私見を述べたいと思います。

なお、この文章はある新聞に投稿したものですが、まだ採否が決定しない時点で本誌(編集部注・「短歌研究」)編集長國兼秀二氏にもお目にかけたところ、緊急掲載のご提案をいただいて寄稿するものです。

実は、別途これを読ませた友人からブログに全文転載したいとの申し出があり、本誌五月号が刊行されたらという条件で同意したのですが、友人はその五月号がもう出たものと早とちりしたらしく、四月三日の時点で全文掲載してしまいました。それを見たツイッターたちが次々に拡散した結果、巷間ではすでに相当の評判になっているようです。

 

あの文章は四月一日の晩に大急ぎで書いたもので、言い足りない点がいろいろあったため、七日から九日にかけて大幅な書き直しを行ないました。それが以下の決定稿です。

今後はこちらの、進化したバージョンを拡散してください。 

「春の到来を歓んでいる」のか?

さて、「令和」の典拠として安倍総理が挙げていたのは、『万葉集』巻五「梅花歌三十二首」の序でありました。

天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府の長官(大宰そち)だった大伴旅人が大がかりな園遊の宴を主催し、集まった役人たちがそのとき詠んだ短歌をまとめるとともに、漢文の序を付したのです。その序に「于時初春令月、気淑風和」の句が確かにあります。〈折しも正月の佳い月であり、気候もすがすがしく風は穏やかだ〉というのです。

Photo by gettyimages

ただ、およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互に依存しあう性質を持ちます。一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。この場合のテキストは、最低限、序文の全体と上記三二首の短歌(八一五~八四六)を含むでしょう。

三二首の直後には「員外思故郷歌両首」があり(八四七・八四八)、さらに「後追和梅花歌四首」も追加されていますから(八四九~八五二)、これらをも含めた全体の理解が「于時初春令月、気淑風和」の理解と相互に支え合わなくてはなりません。

さらに、現代の文芸批評でいう「間テキスト性 intertextuality」の問題があります。しかじかのテキストが他のテキストと相互に参照されて、奥行きのある意味を発生させる関係に注目する概念です。

当該「梅花歌」序は種々の漢詩文を引き込んで成り立っており、「令和」の典拠とされた箇所にもさらなる典拠があります。

その一つとして、早く契沖の『万葉代匠記』が指摘したとおり、張衡「帰田賦」(『文選』)に「於是仲春令月、時和気清」の句があります。この場合、単に辞句を借用したと見て済ませるのではなく、全文との相互参照が期待されていると捉えるのが、間テキスト性の考え方です。

「帰田賦」は、官途に見切りをつけ隠遁生活に入ることを述べた作品で、末尾をいやしくも心を物外にほしいままにせば、いづくんぞ栄辱のく所を知らんや」(心を俗世の外に放ちさえすれば、わが身の栄辱がどうなろうと知ったことではない。原漢文・以下同じ)と結びます。明らかに老荘的な脱俗の思想ですね。俗塵に背を向けるという発想。

文中には「河のまんことをてども未だ期あらず」(黄河の澄むのを待ってはいるが、まだその時期は来ない)という一節もあり、これは政界の浄化がいつまでも実現しないということでしょう。

旅人も老荘の脱俗思想を受容していました。有名な「酒を讃むる歌十三首」(巻三・三三八~三五〇)を読めば、はっきり分かります。

そういう思想的背景のもと、ろくでもない俗世に背を向ける機会として梅花の宴を企てたのでしょう。単に春の到来を歓んだわけではない。

「梅花歌」序の典拠としては、もう一つ、王羲之の「蘭亭集序」(「蘭亭序」「蘭亭叙」とも)も挙げられていて、間テキスト性の見地からはこちらのほうが重要ではないかと思います。