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壁の時代のアメリカで「境界線」という思考が深まらない謎

エンターテインメントの街で 第6回

米コロンビア大学を卒業後、現在、株式会社CTBの代表を務める筆者は今年、アメリカのエンターテインメント産業で仕事を作るべく、ロサンゼルスに拠点を移した。そこで目にしたさまざまな光景を伝える新シリーズ。第6回目は、ハリウッドに見当たらない、ある「思考」ついて――。

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境界線を立ち上げる作家が日本にいる

第91回アカデミー賞授賞式で『グリーンブック』を最優秀作品賞に選出したハリウッドの男女は、本気で同作がベスト・ピクチャーだと思っているのだろうか。

白人と黒人を隔てる境界線が、車に同乗する二者によって解消される映画なら、30年前の第62回授賞式ですでに最優秀作品賞を受賞したではないか。だがそれ以上に、まるで『グリーンブック』のような映画が、人種の境界線に沿ってアメリカを分断しようと企てる政治への批判たり得るかのような――そして、それゆえ最優秀作品賞に値するかのような――演説が繰り返されると、その驚くべき退屈さに、ここは本当にエンターテインメント産業の中心地かと疑ってしまうのだ。

ロサンゼルスに移住して半年、アメリカの政治が、時にアメリカの映画より優れたエンターテインメントに思えて恐ろしい。『グリーンブック』のような分断から調和への移行という神話は、上映中多少居眠りしても差し支えない既視感しか提供しないが、他方で、アメリカとアメリカならざるものの境界を、脆弱な比喩でなく、本物の壁として建設する野蛮な夢を見る政治は緊張感に満ち溢れ、少しも目が離せないからだ。

大迫力の政治を前に映画はあまりに慎ましく、今や時代を象徴する壁、すなわち「境界線」について、もっと真剣に考える作家はいないかと見渡した矢先、ハリウッドから遠く、一時帰国中に訪れた高松で、まさしく境界線を立ち上げている作家を目撃した。

高松市美術館の『やなぎみわ展:神話機械』は、「美術と舞台を往還する」作家の「10年ぶりの大規模個展」と宣伝されている。なるほど2009年のヴェネツィア・ビエンナーレで、日本館代表として写真作品を発表しながら、以後10年間、主に演劇を制作していたやなぎが、写真と演劇のそれぞれ新作を披露するのだから、「往還」の一語が使われても不思議ではない。

だが、果たしてやなぎは写真の人か、演劇の人かと論じるより、やなぎは「境界線の人」だと考える方が遥かに面白いと『神話機械』を観て思う。無論それは、作品のテーマとして境界を扱うという抽象的な意味ではなく、やなぎが境界線そのものを制作し続けているという具体的な意味においてである。

《女神と男神が桃の木の下で別れる:川中島II》2016 年 作家蔵
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日本神話を参照する写真の新シリーズ『女神と男神が桃の木の下で別れる』(2016年~2018年)は、黄泉平坂、つまりあの世とこの世の境界線を美術館内に作り出す。女と男が袂を分かち、死と生が分かれる境界では、「一つの世界が二つに分かたれ、さらに果てしなく分裂していく悲劇が始まる」とやなぎは書く。

劇的、あるいは演劇的な場所として機能する境界線を、やなぎがこれまで繰り返し制作してきたことを、回顧展の側面も持つ『神話機械』は明かす。

《My Grandmothers: MINEKO》2002 年 高松市美術館蔵
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写真シリーズ『マイ・グランドマザーズ』(2000年~2009年)や『フェアリー・テール』(2004年~2006年)は、老いと若さ、無垢と頽廃の危うい境界を見せつけるし、「世の全ての境界に咲く花」夏芙蓉が描かれた舞台車に乗り、全国を巡回した演劇『日輪の翼』(2016年~2017年)のアーカイブは、やなぎが行く先々で「生死、貴賎、聖俗、天地をひっくり返す」境界を立ち上げたことを証言している。

『日輪の翼』(原作:中上健次)2016年 横浜公演 著者撮影
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