日本一の青年剣士を生み出した「音羽の剣道場」秘話

大衆は神である(47)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

関東大震災のルポ『大正大震災大火災』が飛ぶように売れ、大正デモクラシーの終焉は出版界の台頭と重なることになった。そのようななか、ひとり息子・恒の進学問題に野間清治は頭を悩ませることに――。

恒の中学進学問題

大正11(1922)年はじめ、「中等学校に行かなくとも偉くなれる」という清治の教育理念の真価が問われる場面がやってくる。

ひとり息子の恒(ひさし)がその年の3月、千駄木小学校を卒業することになったのである。恒の成績は優秀だったから、中学への進学は容易だった。

清治は、東京府立第五中学校(いまの東京都立小石川中等教育学校)の校長・伊藤長七(ちょうしち)を音羽邸の洋館に招き、恒の進学問題について意見を聴いた。その席には、左衛や、清治の師範学校時代の一年先輩で『現代』編集主任の宮下丑太郎、音羽邸事務室詰めの秘書・大内進、それに少年指導者の笛木悌治らが同席した。以下は大内の証言である。

〈伊藤長七氏が教育者の立場として、円座を作って並んでいる者に「君の意見は、君の意見は」と訊くんですよ。すると皆やはり中学校に行った方がいいと言うんですよ。僕もむろん中学に行ったほうがいい、左衛夫人すらもやっぱり行ったほうがいいと言うんですよ。社長だけは黙っておった。ところが最後に笛木さんを伊藤氏が指したわけだね。そうしたところが笛木さんは「いや、中学なんか行かないほうがいいです」。こう言ったんだ。

そうしたら伊藤氏、教育専門家の中学校長ですから、ほとんどなんだねェ、何というか少し憤慨したような様子で笛木氏を睨み付けて、一介黄口の青年のくせにといわんばかりに、「君は何と大胆な放言をするんでしょう、何の根拠があって中学なんかにいく必要がないというのか」と大いに難詰したわけですよ。そうすると、笛木氏は一向にひるまず依然として「中学なんか行く必要ないんです!」の一点張り、こういったわけでそれでまあ散会になったんですが、あとに残っていた者は社長の居間に呼ばれたわけですね。

そして進学問題の結論について社長がいわれるには「今日の皆の意見は皆駄目だった。一番いいのは笛木だ。笛木の意見が我が意を得たりだ。わたしもむろん進学をする必要はないと思う」と力強く言われた。すっかり笛木氏に点を取られてしまった〉

なぜ、清治は恒の中学進学を拒否したのだろうか。

 

「修養主義雑誌王国」のプリンス

大内は、清治が「自分の子どもだけ進学させるのは自分の日ごろの主義主張、立場の上からしかねた」のだろうと述べている。

たしかに、それもあったかもしれない。が、それよりここで押さえておくべきは、恒が進学するかどうかが講談社の組織の根幹にかかわる重大問題だったということだろう。

清治の口述録を読むとわかるのだが、彼は少年部の育成を始めたころから、講談社を一企業というより、営利事業と教育を融合させた「修養主義雑誌王国」(註①)に仕立て上げようという野望を持つようになる。

未来の王国を支えるのは、日々の修養を重ねてきた少年部員たちだ。そして少年部員たちの「人格的な統合象徴」(註②)となるのが、ひとり息子の恒である。

清治は口述録で「文教の中心、我が大日本雄弁会(=講談社)にあり、武教の中心、また我が大日本雄弁会にあり、文教武教を支配するところまで行かねばならぬ」と語り、「(講談社という)一社を一国同様に考え、そこに宗教もあり、そこに教育もあり、そこに政治もあり、そこに法律もあり、そこに種々のものを具合よくとりいれ」たいと将来の抱負を述べている。

つまり、清治がイメージしているのは、自分が手塩にかけた少年部員たちが親衛隊となって恒を守り、支える「修養主義雑誌王国」――宗教、教育、政治、法律などあらゆるものを備えた企業体――の建設である。

そう考えると、清治が恒の中学進学を拒否した本当の理由が明らかになる。恒は、少年部員たちと同じ小学卒だから、彼らの「人格的な統合象徴」となりうるのである。もしも恒が大学卒の学歴エリートであれば、恒は「王国」のプリンスたる資格を失うだろう。

「私には子供は恒だけです。みんなは恒を兄弟と思ってもらいたい」

笛木によると、清治は常々そう言っていた。恒もそんな気持ちで、少年の間に入って行動をともにすることが多かった。笛木と恒は、剣道もだいたい同じころからはじめ、剣友として修業したし、恒は少年部主催の修養会にも、都合のつく限り出席し修養錬磨に励んだ。演説、文章、講談、落語、詩吟――どれも、恒は笛木らとともに学び、互いに教えあった。

しつけの行き届いた「不在社長の目と耳」

大正末になると、講談社の少年の礼儀正しさ、勤勉ぶりが世人の目に止まるようになった。少年らを可愛がる、著名な作家や画家、出入り先の印刷所や製本所の人々がぞくぞくと出てきた。その実例を、ふたりの画家の証言でご紹介しよう。まずは尾形月山(おがた・げっさん。浮世絵師、日本画家)。

〈使いに見える少年さんたちにいつも感心させられました。今もって頭から消えません。キチンとして礼儀正しく、何時間玄関で待っていても、ちっとも形を崩さない。これにはほんとうにうたれました。代わる代わる見える少年さんが、皆それですから驚きます。よくもこんなに徹底した訓練が行われたものと、しみじみ感服しました〉

次は井川洗厓(いがわ・せんがい。挿絵画家)の証言。

〈(講談社の少年は)使いに来て、玄関にある靴をかならず揃えて帰るのですね。それからもうひとつ感心したのは、画の催促に見えたとき、非常な豪雨で、全くすごかった。根岸にいるときだったが、つい三十米離れたところに落雷した。そのとき、「こっちへ上がりなさい」と少年にいったが、「ハイ」といったきり、立ったまま気をつけの姿勢で微動だにしない。ガラガラドシンときたのだ、私は急いで立ち上がったが、少年は泰然自若としている。こっちが恥ずかしいくらいで、実に敬服したことがありました。やはりしつけですな〉

前にふれたように清治は屋敷に閉じこもって社に出ない「不在社長」だった。きっかけは健康問題だが「現場の背後にいて、現場に出ている以上の能率で、事業の全般を指導する技術、力、徳性、人物、これをこの静養の間に修得」しようと思ったからでもあった(『私の半生』)。

その代わり、社の幹部や各部課主任からはあらゆる報告を求めた。会計事務についても1厘の出費でも複写して届けさせた。各雑誌の毎月の編集会議の記録も、ことごとく提出させた。これには出席者や、発言者の名前が詳細に記されていた。

この記録に清治は細々と感想を書き込んで編集部に返却した。「誰々の発言は非常にいい」と電話をかけることもあった。また社から少年が清治のところに使いに行くと、きまったように社内の様子を聞く。近ごろ誰がよく働くかとか、誰の評判がいいかとか、いろんなことをしつこく聞く。ひとりの少年がAという社員をほめると、次の少年にAをどう思うかと聞き糺す(註③)。

すなわち、徹底的に訓練した少年たちを自らの目や耳として使ったのである。先ほど紹介した『少年部の常識と心得』にも次のような一節がある。

〈一、(旦那様から)色々御質問を受けた場合には、見たこと、聞いたこと、考へたこと、総てありの儘を申上げることが忠実であり、社の為である。例へば同僚の働き振りを問はれたやうな場合、これをかばつたり、心にもないことを申上げたりするのは不道徳である〉

『講談倶楽部』の名編集長として知られた岡田貞三郎が当時の社内の空気を回想する。

〈社の規律の上でしょうがないと思うんですが、不快なことは、(社が)社員の内偵をしているという風なことがしょっちゅうつきまとっていたわけですね。それに値する人もいたんでしょうが、それについては僕ら自身は見たり聞いたりすると非常に不愉快だったんですね。そういう点はもう少し明朗であってもいいな……ということはしょっちゅう思いましたね。

(略)たとえば不在編集主任(外出して所在のわからない編集主任)がいると、(社が)しょっちゅう電話をかけて行く先を探して歩くというようなことを聞いたりね。そういうふうにされるのは、される人間そのものが良くなかったんだろうけれども、少年さんなんかにもいちいちそういうふうな報告をさせるんだろうかと思ったりしてね。少年さんのいるときは少し言動を慎まなければならないなと思ったりして、しなくてもいい取り越し苦労なんかしたりすることがありましたですね〉

剣道こそ修養の道

ここで講談社の剣道について語っておく。

『野間道場物語』(原園光憲著、講談社刊)によると、清治は音羽邸に越した直後の大正10年7月から、恒や少年らを隣の大塚警察署の道場に通わせた。

翌月、清治は剣道界の最高峰・中山博道(なかやま・はくどう)門下の安部義一(3段)を剣道教師として招き、恒らに剣道の基本を学ばせた。大正14(1925)年4月、やはり中山門下の増田真助を、今度は社員兼剣道師範として迎えた。

同年10月には音羽邸裏の丘の上に野間道場が完成した。これは神田明神のわきにあった道場を買い取って移築したもので、稽古場は幅5間、奥行き6間(その後2回の増築で幅5間、奥行き16間の大道場になった)、木造瓦葺きの本格的な道場で、玄関、内玄関、師範室、床の間、浴場のほか、2階には修行者用の宿泊部屋もあった。笛木の回想。

〈大正十四年待望の道場が、音羽本邸の丘の上に建てられた。それまでは大塚警察署の道場を借りたり、野天で稽古をする状態だったので、本式の道場の出来た時は嬉しかった。それほど広い道場ではないが、恒さんを始め社員少年達の稽古には十分で、稽古時間も、朝の七時からと午後四時からの一日二回となり、熱心に励む者はグングン上達していった。

社長も時折り道場に姿を見せ、熱心に、懇切に指導に当たった〉(『私の見た野間清治』)

あるとき、恒に対して5人の者と3本勝負の組み合わせがあり、その試合が終わると、清治が、

「恒、今の試合ぶりは何です。さっぱり気分が入っていないではないか。もう一度やり直しなさい」

と厳しく言った。夏の酷暑のころで座っているだけで汗が流れる暑さである。その時の恒は3段くらいで、5人の者も2段、初段というところで、なかなか恒も簡単には勝てない相手ばかり。清治に注意された恒は「はい」と答え、面も脱がずに再び5人を相手に3本勝負をやった。

今度は大変気合いも入っていて立派な試合ぶりだったので、終わると清治は満足そうに「今度は大分よかった。いつもその気分でやりなさい」と言った。再び笛木の回想。

〈恒さんも後(=昭和9年)に天覧試合に出る頃になると、大へん強くなったけれども、初めから強かったわけではない。まだ二段三段の頃は、少年達とそれほど差はなかったので、稽古で相当疲れた後の五人勝負をやり、ほっとしたところへ社長から厳しく言われ、改めて五人を相手にしたのだが、これを見た時私は、社長の気持ちが分からないこともないが、あまりにも残酷なやり方ではないかとさえ思ったのであった。

普通の青年なら、たとい親の言うことでも、多少は不満の色を現わすのが当たり前だが、恒さんは素直にこれを受けて、言われるままに次の試合をやった。(略)これは単に一例に過ぎないが、もっともっと厳しい稽古の積み重ねで、遂にあれほどの立派な技量を身に付けられるようになったのである〉(『同』)