家族と生き別れ北朝鮮で暮らす「残留日本人女性」その哀しき人生

なにが彼女の願いを拒むのか
伊藤 孝司 プロフィール

帰国のチャンスを次々と逃す

琉璃子さんにはその後、日本へ帰国するチャンスが2度あった。先述の、1946年から2年間実施された引き揚げ事業の時、未婚の琉璃子さんは強制的な帰国対象者だった。ところが解放直後の混乱と朝鮮人家庭に身を寄せていたことで、引き揚げの情報が伝わらなかったのだ。

次のチャンスは、朝鮮戦争後に訪れた。「日本赤十字社」と「朝鮮赤十字会」との協議で、残留日本人の集団帰国が合意されたのだ。この時点でも未婚だった琉璃子さんは、希望すれば帰国することができた。

ところが、この連絡も届かなかった。朝鮮戦争の際、米軍は咸興にも徹底した爆撃を行なったため住民登録名簿は焼失。停戦後、新たに登録をする際、琉璃子さんは朝鮮名の「リ・ユグム」だけを記載したのだ。1956年4月、残留日本人36人を乗せた「こじま丸」は舞鶴港へ目指して遮湖(チャホ)港を出航。船上には、琉璃子さんの姿はなかった。

1959年に始まった在日朝鮮人の帰国事業により、日本人配偶者1831人が北朝鮮へ渡った。そのほとんどは、朝鮮人男性と結婚した女性だった。私が昨年2月に取材することになっていた4人の日本人妻は、平壌へ着いてみると2人が亡くなっていた。今も健在な人はかなり少なくなっていると思われる。

残留日本人と日本人妻の帰国は、日本政府と民間が北朝鮮に対し長期にわたり強く求めてきたことである。1991年1月に始まった日朝国交正常化交渉で、ようやく日本人妻の里帰り事業の実施が決まる。それによって、1997年11月から3回にわたり、合わせて43人が里帰りをした。その中には、2人の残留日本人も含まれていた。

 

拉致問題で封じられた里帰り

ところが2002年10月の第4回里帰りは急に「延期」となった。その直前の9月に小泉純一郎首相が訪朝。「北朝鮮が拉致を認めたことにより、日本の世論が悪化したために実施できなくなった」と、当時を知る外務省関係者は語る。

これ以降、日本の北朝鮮への最大の要求は、残留日本人と日本人妻の里帰りから拉致問題へと大きく転換。加えて、里帰りを求めたり日本人埋葬地への墓参を進めたりすることが間違いであるかのような空気になった。拉致問題以外の日朝間の人道的課題は、完全に封じられてしまったのだ。

荒井琉璃子さん

琉璃子さんには現在、九州で暮らす妹(80)がいる。荒井さんの故郷の県紙『熊本日々新聞』に、私が家族探しの記事を出してもらったところ連絡が取れた。琉璃子さんは里帰りして、その妹との再会と両親の墓参りを強く望んでいる。今ならかろうじて体力的に可能ではあるが、実現には大きなハードルがある。

日本政府が北朝鮮に実施している制裁には「北朝鮮籍者の入国の原則禁止」という項目がある。スポーツ競技の選手と役員の入国を、例外として認めたことがあるだけだ。日本軍の軍属として死亡した父親の遺骨が東京・祐天寺にある男性、「被爆者健康手帳」を取得しようとした広島での被爆女性などが来日を申請。だが日本政府は、こうした人道問題でも事実上の入国拒否を繰り返してきた。

「拉致問題が最優先」として、残留日本人と日本人妻の里帰りに取り組まないのは非人道的であり明確な棄民政策である。とりわけ荒井琉璃子さんは、国策に従って朝鮮半島で暮らした結果、北朝鮮に残留することになった。その日本人の「死ぬ前に里帰りしたい」という望みをかなえることは、国家としての義務ではないだろうか。