家族と生き別れ北朝鮮で暮らす「残留日本人女性」その哀しき人生

なにが彼女の願いを拒むのか
伊藤 孝司 プロフィール

2014年5月の「日朝ストックホルム合意」にもとづき、北朝鮮は「特別調査委員会」を設置。その調査により、9人の残留日本人が健在であることが判明したという。ところが5年後の現在では、咸鏡南道(ハムギョンナムド)、咸興(ハムフン)市で暮らす荒井琉璃子(るりこ)さん(86)しかいないと公表されている。

私は4回にわたって琉璃子さんの自宅を訪ね、その数奇な人生について詳しく聞いた。

荒井琉璃子さん(左から2人目)とその家族

琉璃子さんの父親は、熊本から京城(現在のソウル)へ移り住んで鉄道員をしていた。1944年5月頃に転勤となり、中国との国境の町である咸鏡北道(ハムギョンプクド)会寧(フェリョン)へ一家6人で移る。だがすぐに、父親は現地召集されて中国へ。

ソ連軍による攻撃が近いことを知った一家は、父親と連絡を取ることもできないまま、南へ向かって逃避行を開始した。途中で列車に乗ったものの咸興駅で降ろされた。収容されている旅館で、5歳の弟と2歳の妹が急死。母親と長女の琉璃子さんとで2人の遺体を背負って運び、日本人を埋葬するために掘られた大きな穴へ投げ入れた。

ソ連統治下の北朝鮮で死亡した日本人は約4万人。ソ連軍は、日本人避難民に十分な食料と住居を供給しなかったため、栄養失調や伝染病などで次々と亡くなった。引き揚げ時に持ち帰られた遺骨は1万3000人分だけ。今も北朝鮮各地に、日本人遺骨が眠る。2012年8月から二つの民間墓参団が12回にわたって訪朝。だが民間レベルでの継続が困難となり、中断してしまっている。

「日本へ帰るための旅費が必要だから、これを売ってきて」と、琉璃子さんと2歳下の弟は、母親からリンゴの包みを渡された。

「弟は一生懸命に動き回りすべて売ってしまいましたが、私のリンゴは少し残ったんです。日が暮れると弟を見失い、心細くなって泣いていました」

 

通りすがりの朝鮮人男性に声をかけられ、意を決してついて行く。その家には妻と二人の子どもがいて、白米と豚肉のスープを出してくれた。翌朝、残りのリンゴを売りに行くと弟と出会った。「もうすぐ汽車が出るので、早く連れて来るようにと母親に言われた」と聞いたものの、琉璃子さんはリンゴを売ってしまうことにこだわる。

「追い払うようにして別れたんです。弟は涙を流し、何度も振り返りながら消えていきました」

リンゴを売り終え、旅館へ戻ってみると誰もいなかった。琉璃子さんは、引き揚げ列車に乗り遅れたのだ。

12歳の日本人少女は、日本から主権を取り戻して勢いのある朝鮮人社会に、いきなり放り出された。琉璃子さんは、親切にしてくれた朝鮮人一家と暮らすことにした。他に選択肢はなかったのである。