荒井琉璃子さん(左から2人目)とその家族 撮影/伊藤孝司

家族と生き別れ北朝鮮で暮らす「残留日本人女性」その哀しき人生

なにが彼女の願いを拒むのか

私が北朝鮮取材を繰り返す理由

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を、取材のために頻繁に訪れている。その回数は1992年から40回になり、近年は1回に半月ほど滞在している。北朝鮮からもたらされる情報は極めて少ない。そうした「未知の国」の知られざる姿を取材し、雑誌とテレビで発表してきた。

私は1980年代から、アジア太平洋戦争に関する取材を日本国内だけでなくアジア諸国で続けてきた。「北朝鮮」はその「空白」となっていた。そのため1992年に、おっかなびっくりで訪朝。繰り返し訪れる中で、北朝鮮社会のさまざまなことに関心を持つようになった。

ただ取材許可は容易に出たわけではなく、何度も断られながらもようやく実現させたものばかりだ。取材の許可を得るためだけに、平壌まで行ったことが幾度かある。

「許可された取材は北朝鮮に利用されるだけ」と、発表を交渉したメディアの担当者からたびたび言われてきた。だが日本国内でも、許可を得ないと取材できないことはごく当たり前にある。取材に大きな制約や困難があっても、現場に行ったからこそ分かる事実はいくらでもあるのだ。

「日朝」に関することは、片っ端から現地取材をしてきた。制裁で日本入港禁止になる前の「万景峰92号」への乗船取材、小泉純一郎首相訪朝の手土産として日本が最後に実施した食糧支援のようす、靖国神社から北朝鮮への文化財返還の一部始終、そして今も北朝鮮で暮らす残留日本人と日本人妻である。

こうした取材の一部を、多数のエピソードを交えて『ドキュメント 朝鮮で見た〈日本〉 知られざる隣国との絆』(岩波書店)に収めた。

家族とはぐれて北朝鮮に残留

私は中国、フィリピン、サハリンの「残留日本人」を取材したことがある。アジア太平洋戦争が終焉した時、海外にいた日本人は660万人以上。日本から移住した民間人と戦場や植民地へ送り込まれた将兵だ。その多くは、戦後すぐに帰国を余儀なくされた。ところが、さまざまな経緯で残留した日本人がいる。

 

日本が植民地統治をしていた朝鮮半島の日本人は、もっとも多い時には約75万3000人。日本の支配が終わると、朝鮮半島は北緯38度線で南北に分断される。南側を統治した米国は、日本人の強制的な早期引き揚げを指示し、日本への積極的な輸送活動を行なった。

一方、北側を統治したソ連は、1946年12月に最初の引き揚げ船を出すまで日本人を留め置いたのである。もっともこの時点で、捕虜となっていた将兵は約2万2000人が残っていたものの、民間人は約8000人しかいなった。97%の人たちは決死の覚悟で38度線を突破し、南側を経由して帰国していた。

ソ連統治下でのこの引き揚げ事業は、1948年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国建国の直前の 7月で終了。朝鮮人と結婚していた女性しか、北朝鮮に日本人はいないはずだった。ところが実際には、日本人たちが残留していたのである。1951年の外務省「引揚白書」は、生存者数3303人としている。