吉田増蔵の遺族が保管していた資料『年号索引』の一部

「昭和」を考案した男と「令和」にまで影響した森鷗外の執念

知られざる「元号選定」の裏側

文豪・森鷗外が死の直前まで没頭した、生涯最後の仕事ーーそれは1300年にわたる「日本の元号の歴史」を見渡す、一大プロジェクトだった。そして鷗外の仕事は、ある漢学者へ引き継がれ、「昭和」という時代を決定づけることになる。

平成から令和への改元にあたり、鷗外のまとめた『元号通覧』が100年の時を超えて復刊された。『天皇の影法師』(1983年)で本書に光を当てた、作家・猪瀬直樹氏が、新元号「令和」にまで通底する鷗外の想いを読み解く。

 

「明治」「大正」には否定的だった

森鷗外が宮内省帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)に任ぜられたのは、奇しくも大正天皇崩御の日のちょうど9年前、大正6年(1917年)12月25日だった。

鷗外にはやらねばならぬ仕事があった。そのため史伝小説『北条霞亭(ほうじょうかてい)』を、東京日日・大阪毎日新聞で連載しはじめていたが、この連載は官職復帰翌日の12月26日をもって中断した。

連載を中断してもやらねばならなかったこと、それが『帝謚考(ていしこう)』及び『元号考』(本書では『元号通覧』と改題)の作業だった。

鷗外のまとめた『帝謚考』は上篇と下篇に分かれている。上篇は「天皇追号ノ種類」「漢風謚」「本朝ノ漢風謚」「国風謚」「謚ノ停廃」「院号及後号」「天皇号」の7項で、諡の分類と沿革の考証である。

鷗外は大正9年4月28日賀古鶴所(かこ・つるど、医師・歌人で鴎外の親友)宛書簡で、「明治」と「大正」の元号について否定的な見解を開陳するようになる。

〈明治は支那の大理と云ふ国の年号にあり尤(もっと)もこれは一作ーー明統ーーとあるゆゑ明治ではなかつたかも知れず、大正は安南人の立てた越(えつ=ベトナム)といふ国の年号にあり又何も御幣をかつぐには及ばねど支那にては大いに正の字の年号を嫌候(きらいさうろふ)。「一而(ニシテ)止(ル)」と申候。正の字をつけ滅びた例を一々挙げて居候。不調べの至と存候〉(原文に句読点なし、仮名遣い片カナ、以下同じ)

「不調べの至と存候」と鷗外が吐き棄てるように書きつけてから病床に臥すまでの期間は決して長くない。大正11年5月26日、死期を予感した鷗外は、賀古宛書簡でこう書いた。

〈女、酒、烟草(たばこ)、宴会、皆絶対にやめてゐる。此上は役を退くヿ(こと)より外ない。しかしこれは僕の目下やつてゐる最大著述(中外元号考)に連繫してゐる。これをやめて一年長く呼吸してゐると、やめずに一年早く此世をおいとま申すとどつちがいいか考物である。又僕の命が著述気分をすてて延びるかどうか疑問である〉

死期が迫っていた鷗外が病床に就くのは大正11年6月15日である。はじめて額田晉の診療を受けたのが6月29日、その日まで鷗外は自ら日記を書いていた。が、30日以降、吉田増蔵に代筆させた。

大正5年に撮影された森鷗外(国立国会図書館所蔵)

全日記を収録した『鷗外全集』第35巻(岩波書店、昭和50年刊)では、「二十九日。木。第十五日。額田晉診予」の次に「〔以下吉田増蔵氏代筆〕」と一行挿入されている。「第十五日」というのは、出勤できなくなった日数のことで、日記の最後、7月5日の項は「五日。水。第二十一日……」となっている。

ここに登場する吉田増蔵という人物は、鷗外とどういう関係にあるのだろう。遺言を筆記した賀古鶴所は、鷗外にとって「少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友」だったが、日記の代筆を頼まれた吉田増蔵にも、それなりのいわく因縁があるはずである。

宮内庁人事課所蔵の『転免物故歴』を閲覧して、「本貫族籍・福岡県平民 勲位・正六位 生年月日・慶応二年十一月二十三日」で私塾で漢学を学び中等教育検定を受け、属官として宮内省に入り、「明治四十二年、京都帝大支那哲学修業」(正規の課程でなく選科なので卒業でなく修業)、奈良女子高等師範学校教授などを歴任、大正9年に宮内省図書寮編修官に任ぜられている、などの経歴はつかめた。鷗外が『元号考』に取り組んだ時期と、吉田が図書寮にきた時期が一致している。

これが偶然の一致ではないと思われるのは、病床の鷗外が吉田に日記を代筆してもらう少し前、6月20日の項に、留意しておきたい記述がある点だ。

〈二十日。火。晴。第六日。呼吉田増蔵託事〉

吉田に託した事、とはいったいなにか。