上野千鶴子氏の東大スピーチ「納得と、それでも消えない疑問」

「弱者」とは、いったい何か?
御田寺 圭 プロフィール

「弱者」なのか「対等」なのか?

〈女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です〉(「祝辞」より引用)

筆者はこれまでにも、「なぜ男性に『甲斐性』や『強者であること』が顕著に求められるのか」「それは男性が自発的に望んでいるというよりも、女性も含め社会全体の要求に男性が応じている(応じなければ疎外される)ことの結果ではないか」と指摘してきた(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59940など)。

前述のとおり上野氏も「弱い男性は平和に滅びていけばいい」とかつて述べた。このような言葉が「男は強くあれ」というメッセージを言外に含むものとして受け止められても無理はない。控えめに述べてもこうした言葉は「弱者が弱者のままで尊重される」という「フェミニズムの理念」と矛盾するように思える。弱いまま包摂されるべきは女性だけであり、男性は別にその対象ではない、ということであれば一応の筋は通るが。

男性も女性も権利は平等であるべきだが、いま多くの男性に課せられている他者との競争や、「甲斐性を持て」「カネを稼げ」「強くあれ」といった規範(淘汰圧ともいえる)はあくまで男性に課せられるべきであって、女性が背負う必要はない。なぜなら「弱者は弱者のままで尊重されるべき」だから――フェミニズムがこのような思想であるならば、率直に言って都合が良すぎないだろうか。そうした規範の形成に加担しているのは、なにも男性だけではないはずだ。

今回のスピーチを、上野氏が過去に展開してきた言説とあわせて検討すると、フェミニズムの目指すところが一体何なのか判然としない。男性と女性の差異をないものとし、それに基づいて扱いの違いを根本的になくしたいのか、それとも女性は無条件に「弱者」なのだから、権利は等しいが負担は男性が多く背負うべきだとするのか。「どっちつかず」、悪くいえば「いいとこ取り」であると感じずにはいられない。

上野氏は「恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください」と、東大生にノブレスオブリージュの実践を呼びかけた。だが、そう述べるのであればなおのこと「エリート女性が非エリート男性を包摂するのは非現実的」という過去の主張を上野氏は反省すべきではないか。

平時は「弱者を尊重しよう」と叫びながら、いざ目の前に「弱者」が現れると「私が面倒を見る必要はない(なぜなら、関わりを持つも持たないも個人の自由だから)」とか「誰か別のところを当たってくれ」という「強者」が、この世の中には少なくない。

こうした「総論として賛成だが各論としては反対」という態度は、いわばこの社会でさんざんに繰り返されてきた「小さなノーサンキュー」――あなたにはきっと、もっとあなたにふさわしい相手がいるよ/場所があるよ(でもそれは私ではないしここではないから、こっちに近づかないでほしい)――なのだ。

そんな「やさしさを装った疎外」が積もり積もって大きな社会不安をつくり出そうとしている。これは冒頭で述べたような、日本社会の「階級社会化」ともおそらく無関係ではないだろう。

私たちはいままさに、社会の下層へと人びとを押しやって不可視化するための方便として愛用してきた、この「小さなノーサンキュー」とどう向きあうかが問われているのではないだろうか。

上野氏のスピーチを賞賛することで思考を止めるのではなく、男性と女性のあいだ、強者と弱者のあいだで、どのような論理や感情が生まれているか、そしてそれらがこの社会をどう規定し動かしているのか、観察し続け、考え続けるべきだろう。今回、上野氏を手放しに絶賛した人にこそ、少し立ち止まって足元を見てみてほしい。