天皇を「わが友」と呼んだジャーナリストがいた

決して冗談やレトリックではない
伊藤 智永 プロフィール

「遺言」…日中・日韓の和解へ

日米の戦後和解に一区切りつけた後、松尾さんは次に日中・日韓の戦後和解に精力的に取り組んだ。

韓国との間では、日韓で「決着」したはずの従軍慰安婦合意について再交渉は避けられないと指摘した。日本軍による虐殺事件があった南京と、都市無差別爆撃で1万人を超す中国人を殺りくした重慶で、日本の代表が献花を行うべきだと唱えた。

毎年のように海外を取材で訪れ、米国と中国が体制やイデオロギーは違っても、政治・経済・思想的な「共生」関係にあると洞察し、『アメリカと中国』(岩波書店、2017年)の新著を刊行した。80歳を過ぎてから韓国語の学習を始め、日本の朝鮮植民地支配の責任を清算する主張と活動を繰り広げた。

最後に電話をもらったのは訪米旅行を控えた2月初めの晩だった。昨年11月、元徴用工判決を巡って日韓関係が冷え切った時期、思い立ってソウルを訪れ、自分の意見を渋沢栄一記念財団の機関誌『青淵』1月号に寄稿したので読んで欲しいという要件だった。論考は松尾さんのブログで読むことができる。

現地で、幼児期に乗った朝鮮鉄道の急行列車の名前は「ひかり」「のぞみ」だったと教えられる。日本は戦後、世界に誇る新幹線に平然と植民地時代の名前を付けていたのだ。「一番近い隣国を併合し、皇民化した傷跡の深さを改めて見た」と記し、「韓国とまず静かに接することから始めよう」と呼びかけている。

そして隣国との「不幸な過去」(1992年の天皇訪中時のお言葉)と決別するため、ソウルの日本大使館前にある慰安婦少女像を、「不幸な過去のシンボルと捉え、それとの決別を果たせることを祈って花束を供えてきた。ソウルを訪れる日本人からの花束が途切れなく続けば、というのが私の提案である」と結ぶ。

今の日本の政府見解や多数世論とは相容れない意見だが、これが松尾さんの「遺言」になった。天皇も松尾さんの文章は必ず読んでいるはずである。

平成流「象徴の思想」の現在地

天皇は2001年、サッカーワールドカップ日韓開催に際し、韓国王族と皇室の血縁説を「ゆかり」と表現したことがあった。終戦記念日に戦後70年以降毎年、首相談話から消えた「先の大戦に対する深い反省」に言及するようになった。いずれも松尾さんの考え方との近さを考えさせられる。

松尾さんは天皇を「本質的にものすごく芯の強い男だ」と評していたという。類いまれな意志の強さがなければ、柔らかな平成流を貫き通すことはできなかった。意志の強さが、202年ぶりの生前退位を実現させる。「達成感」は、平成の天皇の「象徴の思想」の現在地点でもある。

関連記事