# 日韓関係 # 松尾文夫 # 戦争

天皇を「わが友」と呼んだジャーナリストがいた

決して冗談やレトリックではない
伊藤 智永 プロフィール

皇太子と過ごした青春

話に出始めたのは3年前、天皇の退位表明に日本会議系保守論客が「わがまま」「自分勝手」と公然と反対し、勢いに乗じて「両陛下は皇居奥深くにいることを第一とし、国民の前に出てこなくていい」と国民と親しく交わる平成流の批判まで始めた頃からである。

松尾さんから安倍官邸の考え方や方針、勢力関係などをしばしば尋ねられ、問答の合間に自然と天皇との交友について断片的に推察するようになった。

東京・白金の学習院大学キャンパス内に戦後、高等科に進学した皇太子(今上陛下)のために「清明寮」という学生寮が造られた。今はない静岡県の海辺にある沼津御用邸だったと記憶するが、夏休みに何人かの学友が侍従から「遊びに来るように」と招かれて皇太子と一緒に過ごした。

それが「選抜試験」だったのだろう。松尾さんは皇太子と二人部屋のルームメートに指名された。昭和天皇は終生、2・26事件に重く複雑なこだわりを抱いていた。皇太子の同室者に事件の犠牲者遺族が選ばれたのは、何か配慮や因縁があったのだろうか。

二人は10代後半の人生で最も多感な高校・大学生の時期に寝起きを共にし、青春の夢や悩みを何でも率直に語り合う友情を育んだらしい。私は直接聞いていないが、二人だけの場なら「俺」「おまえ」で呼び合う間柄だったとの証言もあるほどだ。メディアによく登場する「ご学友」たちとは別格の「知られざる心の友」だった。

宮内記者会の現役の代表格である日経新聞の井上亮編集委員によると、近年も電話ではたびたび話し、半年に一度は松尾さんが皇居を訪れ、天皇と本音で議論していたという。

松尾さんは天皇に「おまえはここがダメだから直せ」といった直球をビシビシ投げ込み、側近たちは「松尾さんが帰ると陛下はぐったりとお疲れになる」と漏らしていたそうだ。「国民の本当の声を聴ける」と考えていたのかもしれない。

記憶と古傷

松尾さんは実力を備えた一流の外交ジャーナリストであった。共同通信ニューヨーク、ワシントン特派員を経て1971年、ニクソン米大統領の電撃的な中国訪問発表を3カ月前に月刊誌『中央公論』への寄稿論文で予見していた国際分析力は今なお伝説の一つだ。

日露戦争最終盤の1905年7月、ロシア軍が降伏する2日前、桂太郎首相と来日したタフト米陸軍長官(大統領特使、後に大統領)が日本の韓国支配と米国のフィリピン統治を互いに承認し合った秘密協定こそが、後の日中・日米戦争の導火線になったという射程の長い歴史観を持ち、「現在の朝鮮半島危機の根っこには、100年前の日本とアメリカが付けた古傷があることを忘れてはならない」と訴えた。

何しろ人生で最初の記憶が、2・26事件で殺された祖父の東京での葬儀に参列し、当時父親が駐在していた中国へ母親と二人で帰るため、釜山から朝鮮半島を縦断する汽車に乗った列車内の様子だったというのだ。白い朝鮮の民族服を着た二人の男たちから、植民地支配された者たちの怯えと静かな抵抗の緊張感を三歳になる前の幼児でも確かに感じたのだと繰り返し語った。

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