「出世・金儲けしたいなら修養せよ」少年たちの心を掴んだ修養主義

大衆は神である(46)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

関東大震災のルポ『大正大震災大火災』が飛ぶように売れ、大正デモクラシーの終焉は出版界の台頭と重なることになった。そこに登場したのが、マルクス主義と並び支持を得た「修養主義」だった。

 

第五章 少年たちの王国──君たちはこう生きよ(1)

修養主義

時代は急速に移り変わりつつあった。大正デモクラシーの波がひいたあと、時代の空気を最も敏感に反映した思想はマルクス主義と、清治が唱える「修養主義」だった。

体制の根底からの変革を目指すマルクス主義は、周知のように当局の徹底的な弾圧を受け、やがて社会の表面から姿を消していく。しかし、清治の「修養主義」は庶民の心情の奥深くに浸透していき、昭和前期の日本社会に強い影響力を発揮することになる。

といっても、今は「修養」という言葉自体が死語なので、読者は何のことだかおわかりにならないかもしれない。まずは「修養」の意味から簡単にご説明しておこう。

京大名誉教授・竹内洋の『立身出世主義[増補版]――近代日本のロマンと欲望』(世界思想社)によれば、つい最近までは、年輩の人は「修養」という言葉をよく使っていた。

自営業主などは店員に床掃除をさせ、「ちゃんとやるのだぞ。修養だからな」と叱咤激励していたし、自分のことも「修養がまだまだ足りない」などといって反省したりもしていた。

修養とは修身養心、つまり身を修め心を養うことである。克己や勤勉などによる人格の完成を道徳の中核とする精神主義的人間形成である。

「修養主義」は明治30年代に台頭し、40年代に大きな潮流となった。修養本の2大ベストセラー作家をあげれば、明治・大正が新渡戸稲造で、昭和が野間清治だと、竹内は言う。

万事心がけしだい

では、新渡戸と清治のふたりは具体的にどんなことを説いたのだろうか。竹内は、新渡戸の『(縮刷)修養』(実業之日本社刊)から有名なエピソードを引いている。

新渡戸がカナダにいたとき、地方を視察した。雨上がりの道路は泥だらけで車輪がはまってしまって難渋した。そこにひとりの農民が荷馬車を引いてきた。新渡戸たちと同じ場所で車輪が同じ泥にはまった。新渡戸は「こんな土地で農業をやるのは大変だろう」と同情の言葉を投げた。

農民はこの同情を受け止めなかった。泥を手にすくって、

「こんな土ですから、何でもできるんですよ」

農民は道路の悪いことより土地の肥沃を喜んでいる。

「故に普通の人が不平とすることも、善用すれば、愉快の種にすることができる」

心がけの重要性が説かれている。

さらに新渡戸は修養の目的を次のように書いている。

「我々が平凡なる日々の務めを尽すに、必要な心掛を述ぶるを目的とするので、一躍して英雄豪傑の振舞をなし、六ケ(むつか)しい事、世の喝采を受ける事を目的とせぬ」

修養は「細謹(さいきん)」、つまり声のだし方、目の艶、歩み方などの平凡事の高低を大事にするから、「豪傑肌」のものは耐えにくい。

「非凡の事は平凡の修養に成る」

野間清治のほうは『世間雑話』(大日本雄弁会講談社刊、昭和10年)のなかでこう言う。

何事もまず自分をつくることである。だから雑巾がけをすること、ご飯を食べること、お辞儀をすることのような手近なことを誠心誠意つとめることである。そういうことの積み重ねの上に人物ができあがり、出世もできる。それを、いまの仕事を抜きにして、夢ばかりを空想していれば、ろくなことはない。

「人間は、誰でも、其の仕事に全身全霊を打ち込んだ時くらゐ、立派なものはない、尊いものはない。其の顔も、態度も、一点の隙もなく只光り輝いて神々しく見える」