エンジニア、研究者、デザイナー、義肢装具士、理学療法士――プロフェッショナルたちがその知恵と技術と努力を結集して乙武洋匡氏を義足で歩かせようとし、乙武氏は自らを「広告塔」と位置付けて歩く姿を晒している。それが「OTOTAKE PROJECT」だ。

その一部始終をお伝えする連載第4回。第3回までは、貴重な記録映像『頑張れヒロくん』をもとに、生まれてすぐの乙武氏が義足歩行訓練を受けていたこと、そして義足をつけなくてもお尻をすりながら前に進める乙武氏が、義足練習をやめる決断をするまでをお伝えした。

現在歩行練習を続けている乙武氏だが、実は取り組みを始めた当初、大きな壁にぶつかった。それは、3歳のときに電動車椅子というスピーディな移動手段を得たからこその壁だった……。

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電動車椅子で幼稚園生活スタート

1980年4月。4歳になった私は、世田谷区深沢にある世田谷聖母幼稚園に入園した。これを機に、乙武家は江戸川区西葛西から世田谷区用賀のマンションに引っ越すことになった。

健常者の子どもたちと同じ環境で、私の幼稚園生活が始まった。ヘンテコなマシーンを巧みに乗りこなす私は、当然みんなの注目の的となった。

入園式の当日から、電動車椅子を操作する私のあとをみんながもの珍しそうについてくる。
「ヒロくん、ちょっと乗せてよ」とせがまれたりして、すぐにみんなと仲良くなれた。

幼稚園での様子 写真/『頑張れヒロくん―四肢欠損児3歳10ヶ月の記録―』(東京都補装具研究所小児切断プロジェクト)より

教室の中では車椅子を降りて自分の足で歩く。左右の足を交互に振り出しながらお尻で進む歩き方は、もうお手のものになっていた。

幼稚園に入っても、補装具研究所の指導は続いていた。

夏休みには、着替えの練習が始まった。先端にフックがついた棒が2本、私の肩の高さに備えつけられている。フックにTシャツの裾を引っかけて頭を抜く。その逆に、フックにかけられているTシャツに首をつっこみ、肩から胸へ、胸からお腹へと徐々にシャツを下ろしていく。ただ、あまり実用的ではなかったようで、私はいまでもひとりで衣服の着脱をすることができない。

杖をついて義足で歩く練習、さらには義手で字を書く練習もしたが、どれもあまりうまくいかなかった。家や幼稚園なら自分の足のほうが、外に出かけるなら電動車椅子のほうが圧倒的に便利だったし、字を書くのも頬と腕の間にペンを挟んだほうが、速く、そして上手に書けた。