幼少期の乙武氏

「もう義足はいらない」 乙武洋匡が義足との決別を決めた3歳の秋

乙武義足プロジェクトの挑戦❸

四肢のない乙武洋匡氏がエンジニアの遠藤謙氏と出会ってから、ずっと温めていた「OTOTAKE PROJECT」。エンジニア、研究者、デザイナー、義肢装具士、理学療法士といったプロフェッショナルたちがその知恵と技術と努力を結集して乙武氏を歩かせようとし、乙武氏は自らを「広告塔」と位置づけて歩く姿を晒している。その一部始終をお伝えする連載第3回。

貴重な記録映像『頑張れヒロくん』には「幼児期の義足練習風景」が残されていた。1歳半のときに初めて義足で「立った」乙武氏だが、なぜその義足を使わなくなったのか。

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2歳半からの本格的な義足訓練

2歳になると、江戸川区役所にある葛西児童センターの育成室に通うようになった。この育成室は、心身の発達に遅れのある子どもたちが通う保育園のような施設で、幼稚園に入学するまで毎日お世話になった。

昼になると、みんなでお弁当を食べた。食事の前には手を洗わなくてはならない。手洗い場は子どもの腰ぐらいの高さにあるので、育成室の先生はそこに3段の階段を設置してくれた。

階段1段の高さは私のへそほどの高さだったが、短い右足を軸にして、少し長い左足を振り上げることで登ることができた。蛇口の下の洗面器に溜めてある水に両手の断端を浸して洗うと、また右足に体重を乗せて左足から階段を下り、食事のテーブルに戻ってきた。当時もいまも、歩くときの軸足は短いほうの右足だ。

2歳半を過ぎると、本格的な義足訓練が始まった。

身体の成長につれて両足で立つことができるようになってきたので、それまでより義足を高くし、足部を靴のような形にした義足で歩行練習をするようになった。

すると、私の映像から笑顔が消えた。それまではどんな練習をしているときも、子どもらしい笑顔を振りまいていたのに、口をへの字に結んで、ムスッとした表情をしている。義手の練習のときとは大違いだ。3歳にもならない頃の記憶など、普通は残っていないはずなのに、私はいまも義足の練習をさせられているときの不快感を鮮明に覚えている。

なぜ、それほどまでに義足の練習がいやだったのか。

ゲームのようで楽しかった義手の訓練と違って、義足の練習は平行棒の中の3メートルほどの距離を往復するだけ。とても単調なものだったからだ。いつも転倒の恐怖がつきまとっていたし、平行棒や人の助けがなければ、とても歩ける気がしなかった。私の口も、への字に曲がるわけである。

2歳のときの義足での歩行訓練の様子 写真/『頑張れヒロくん―四肢欠損児3歳10ヶ月の記録―』(東京都補装具研究所小児切断プロジェクト)より
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