必要なのは慎重かつ丁寧なプロセス
医療界を含め、概ね、世間一般では透析中止問題への批判の声が上がっている。
報道されているように、医療者側がガイドラインの方針に準拠していたかと問われれば、されていないと言うしかないであろう。現在の日本透析医学会による終末期の透析中止ガイドラインでは、中止を検討する状況として、
(1)透析を安全に行うことが困難で、患者の生命を著しく損なう危険性が高い場合
(2)患者の全身状態が極めて不良である、なおかつ患者の意思が明示されている場合や家族の意思を推定できる場合
のみとしている。その上で、患者の意思が推定できない、家族と医療チームの合意形成できない場合には倫理委員会の設置が求められている。
ガイドラインは絶対ではないかもしれない。
しかし、透析中止はそのまま「死」である。少なくとも身体的には(1)(2)のいずれにも該当しない患者である。透析中止という判断を医療者が認めるには、医療において最も慎重かつ丁寧なプロセスが必要であることはいうまでもない。
報道には、看護師同席の上、ご家族も含め、複数回の確認をし患者が透析中止を選択した、とある。しかし、倫理委員会の開催もなかった、病院として承認したものではなかったというプロセスは、結果として、「十分なインフォームドコンセントを行った上での同意」とはみなされないのはやむを得ないであろう。
プロセスをとっていた、と当事者が考えていても、それは客観的に外部から検証されても認められるものでなければならない。病院が気づかなければ、問題としていなければ、それは問題を抽出する機能が備わっていなかったと判断される。
客観的にみてガイドラインに該当しない患者であるならば、病院として可能な限りのプロセスをとっておくことが、現場の医療者を守ることになるのである。
紛争の分析~心に潜む「インタレスト」とは?
いずれも報道からの情報であるが、当初、医師からは非透析の方針が示されたとされ、後日、病院側からはそれが否定された。実際にどのように医師が伝えたのか詳細は不明であるが、重大事項の決定においては、こういったコンフリクトを予測して、できる限りの対応をとる必要がある。
医療者と患者では大きな情報量の違いがある。医療者の選択肢の示し方によって、どちらにも誘導されかない。伝える側の考えるところと受け取る側の認識にはしばしば齟齬、ずれが生じ、これはコンフリクトの大きな原因となる。
インフォームドコンセントは群馬大学病院でも大きな問題のひとつであった。リスクは説明して同意を得ていたと言っても、多くのご家族の記憶には、腹腔鏡の手術は術後が楽である、傷が小さい、退院までは〇週間、と言った良い情報の記憶しか残っていない。
病理解剖がされていなかった、ということも問題とされたが、必要性を話してもらえば同意した、というご家族からの話も少なからず聞いた。
透析中止事例において、本人の意思が明確であった、家族も含め複数回確認した、受けない権利を認めるべき、とも病院の医療者は主張しているとの報道もあった。しかし、実際には、家族側からは怒りの感情が表出されており、コンフリクトを生じている。
確かにその時点では中止の意思を自分で示したのかもしれない。しかし、感情は変わるものである。その時の言葉は、本当の想いであったのか、迷いはなかったのか、十分に話していなければ、実は心に潜むコンフリクトに気づくことができない。
こういった問題をみていると、紛争の分析で学ぶ「インタレスト」というものを理解しているだけで、対応が違うのではないかと思う。
少し「紛争の分析」について解説したい。コンフリクトを振り返るときに、その紛争を分析してみると問題や感情の動きが見える。紛争の分析として使っている「IPI分析」というものがある。
最初のIは「Issue(イシュー)」、問題点、いわゆる問題となるテーマのようなものである。
Pは「Position(ポジション)」、表出されていることそのまま、対話や紛争であれば、「言葉」「態度」である。
2つ目のIは「Interest(インタレスト)」、深層の想い、価値観などである。言葉ではそう言っていても本当はこうだった、話しているうちに実はこんな気持ちだった、と気づく。
自分が怒った時のことを思い出すと、実はなぜ怒ったのか、別の気持ちがあったということに気づくのではないだろうか。
医療者に怒りをぶつけていても、実はこんなことになるならあの時こうしておけばとか、何もできなかった自分への後悔が出てくることもある。怒りは二次的感情、ポジションである。怒りを表出したままでは問題は解決しない。
ポジションだけのやりとりになると本当の想いに気づかず、さらなるコンフリクトが生じる。
心に潜むコンフリクトを表出させるには、傾聴、共感、相手をまず認めるという対応が必要なのである。