日本の入管はなぜ難民・外国人に冷酷なのか? その「歴史的」理由

「警察行政のDNA」の影響とは
五野井 郁夫 プロフィール

日本の入管が持つ「警察行政のDNA」

なぜ日本の入管は、これほどまでに難民申請者らに対して敵対的なのだろうか。それの一因は入管という組織の来歴に淵源しているともいえる。以下、日本の入管行政を足早に振り返ってみよう。

戦前、日本の入国管理は、警視庁や各都道府県の特別高等警察(特高)と同様に内務省が所管しており、警察行政の一環として入国管理が行われていた

1945年の敗戦にともない、占領軍によって内務省は解体された。それにともない特高警察も解体されたものの、おもに大日本帝国内での市民だった朝鮮人や外国籍の者たち、そして共産主義者らを取り締まっていた官僚たちの多くが公職追放を免れたことで、戦後の初期から出入国管理業務に携わる部署の一員として引き続き雇用されることとなった。

これについて国際法学者の故大沼保昭は、敗戦直後の占領期に出入国管理体制に携わった人々からのインタビュー調査を行っている。

 

調査の結果、入管業務従事者とその周辺のかなりの部分が旧特高関係者で占められており、とりわけ在日朝鮮人らに対する強い偏見や差別観をもち、入管業務対象者に対してはつねに公安的な発想で接していたことが、明らかとなったという1

戦後初期の入管担当者に聞き取りをした故大沼の表現を借りれば、旧大日本帝国の植民地下にあった在日韓国・朝鮮人、台湾人に対する管理と差別意識がそのまま「外国人と日本国民の間に差別があるのは当然」という形で正当化され、また悪名高い戦前の特高警察が主要な担い手であったことから「戦前の感覚」が存在して、引き継がれたというのである2

会社と同様に各省庁にもそれぞれ組織文化が根付いており、体質として戦後の長い間、組織内で何らかの形で温存されてきたとしても、それはとくに不自然なことではないだろう。

戦後、「難民」が社会に位置付けられた

そもそも入管に難民申請をしている難民とは、どういう現象であり人々なのだろうか。

20世紀には戦争と革命、そして勝者なき戦争後の空気のなか、諸国の法が機能している空間秩序が生まれ、その空間秩序の「法外」に置かれた難民が相次いで発生した。

第一次世界大戦に関連して生じたアルメニア難民、ソヴィエト革命から逃れ大量に流出したロシア難民、次の大戦に至る「危機の二十年」と呼ばれた戦間期のユダヤ難民、そして第二次大戦での各地での戦災難民などがその主なものだ。

〔PHOTO〕iStock

難民を救済するために国際連盟下でいくつかの国際条約が結ばれもしたが、それらは対象となる難民の範囲や保護の内容が限定されていたのみならず、締約国数も少なかったため、第二次大戦に関連して発生した多数の難民保護には不十分だった。

実際に国際社会のなかで難民の定義がしっかりと定まりパラダイム転換が起きたのは、1951年に国連全権会議において各国に採択された「難民の地位に関する条約」、いわゆる「難民条約」においてである。

同条約では、第二次大戦後も引き続き発生する難民に対して、人権と基本的自由を保障し、難民の地位に関する従来の国際協定等を修正・統合した。これとともに、適用範囲と保護の拡大をするために難民と無国籍者の地位を定めており、今日まで難民一般の概念を規定する基本線となっている。

難民条約の定義によれば、難民とはまず

「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」

がゆえに、

「国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」

である3

*1 大沼保昭『単一民族社会の神話を超えて』東信堂、1986年、30頁、260頁
*2 大沼、同上、265頁
*3 外務省人道支援室『難民条約』、外務省国内広報課、2004年、35頁