私たちはなぜワクチンを怖がってしまうのか? 進化論的に考えたら

無茶ぶりエッセイ お題は「必要悪」!
佐倉 統 プロフィール
リスク認知
英語だが、この図はとてもわかりやすい。真ん中より上の円が主観的なリスク認知、下が実際の危険度。アーティスト、スザンナ・ヘルトリッヒ(Susanna Hertrich)の作品。拡大画像表示

そこには一定の規則があって、自分でコントロールできる裁量が大きい現象については、リスクは小さく認識する(参照:中田哲也「リスク認知に影響する要素」。自転車事故と飛行機事故の違いはこのパターンだ。

それから、未知の現象のリスクは大きく、既知のものは小さく感じる。バイオハザードとプールがこの例だ。

この他にも、時間が経ってから生じる危険性や、恐怖感を伴う現象については数理的な評価より大きく評価することもしられている。放射線被曝の健康リスクを大きく感じるのは、この例だ。

体内に入れる物というのも、リスクは高く見積もられる。福島産の食品や遺伝子組み換え食品に拒否感をいだく人たちもいるが、その原因のひとつはここにあるのだろう。

これらの心理的なリスク評価の特徴を、「リスク認知のバイアス」と表現しているのをよく目にする。「客観的な」リスク評価に比べて「偏った」認知をしている、というわけだ。

だが、この「バイアス」という表現には違和感を覚える。

人間の心理がこのような特性をもっているのは、以下に説明するように進化的な理由がある。甘いもの好きと同じで、人類が進化してきた環境においてはこれらの特徴は人類が生き残るために必要な適応的な特性だったのだ。

それが、数理的なリスク評価とずれているからといって、数理的評価が正しくて心理的評価が偏っているというのは、視野の狭い表現だろう。

どちらもそれぞれに正しいのである。その正しさの根拠が違うだけだ。

危なそうだったらとにかく逃げる

リスク認知の進化的背景がわかりやすい形で表れているのは、「危険か安全か分からないときは危険だと判断せよ」という心理的傾向である。

本当は大丈夫なのに危ないと判断する偽陽性と、本当は危ないのに大丈夫と判断する偽陰性は、どちらも間違った反応なので確率を下げたいわけだが、相互に相反する現象なので、両方とも下げるわけにはいかない。

火災報知器を考えてみればわかるように、偽陽性は、いわばセンサーが敏感すぎてしょっちゅうリンリン警報が鳴っている状態だ。そのたびにスプリンクラーが作動して水浸しになったり、慌てて逃げ出したりして仕事にならないので、報知器の感度を下げる。つい下げすぎてしまうと、今度は本当の火事の時に作動しなくてオフィスもろとも丸焼けになってしまう。これが偽陰性だ。実際、誤作動ばかりする火災報知器がうるさいのでスイッチを切っていたために雑居ビルが火事になったことは何回かある。

このように、偽陽性と偽陰性が生じる確率を、両方同時に下げることはできないのである。

ではどちらを下げることを優先するか?

偽陰性と偽陽性、両方とも判断の誤りであることは確かだが、被害がより大きいのは明らかに偽陰性のほうだ。偽陽性なら部屋が水浸しになるぐらいですむが、偽陰性だと火事で焼け死ぬかもしれない。

だからぼくたちの心は、危険が迫っているかどうか迷ったら、偽陽性を選ぶ。つまり、警報器を鳴らす。

藪がガサガサと音を立てたら、それがライオンなのか風なのか、判断する前に逃げるのである。それが間違っていても、ちょっと疲れるだけだ。一方、もしライオンがすぐそこに迫っているのにのほほんとしていて逃げなければ、大けがを負ってしまう。場合によっては命を落とすかもしれない。

だから、ぼくたちの心は、少しでも有害なリスクがあると感じられたら、大声をあげて警報を発するようにできている。「危ないぞ! 未知の脅威が迫っているぞ!」と。