# 梅花の宴 # 万葉集 # 大伴旅人

「令和」誕生の舞台「梅花の宴」を万葉研究の第一人者が解説

太宰府は文化交流最先端の地だった
上野 誠

最先端の文学

ただし、前近代までの文章というものは、前述したように、心のおもむくままに、自由にその思いを書き綴るというものではなかったことを忘れてはならない。多くの古典、ここでは漢文で記された書物の表現を借りながら、その時々の状況に応じて書き綴るものであった。ために、この美文の背後には「蘭亭集序」をはじめとした、多くの漢詩文が踏まえられている。

読む方も読む方で、頭の中には、その詩文が入っているから、「あぁ、あの詩文のあそこが引用されて、こう書いたのか」とわかり、「なかなかやるなぁー」とか、「よく知っているなぁー」とか、「えっ、あいつの学問ダメだなぁ」と思いながら読むものなのである。

しかし、そうやって、日々の読書で蓄えた知識を詩文に盛り込むことこそ、当時の学問であり、文学であったのだ。そして、その学問の担い手こそ、官人であったのであり、この梅花の宴には、天平時代を代表する知識人たちが集っていたのであった(なお、かくいう私は、彼らの千分の一の学力もないことを、ここで白状しておこう)。

彼らは、平城京から、鄙すなわち田舎に赴任をしていたのだが、ここは太宰府。朝鮮半島、中国大陸に近く、文化交流という点では、むしろ最前線、最先端の地であった。だから、この序も、当時の最新の文学知識が盛り込まれているのである。われわれは、その一端に、『万葉集』巻五を通して触れることができるのだ。

梅は外来植物

第一、梅見の宴などということが、当時としては、ハイカラな宴会だった。梅は『万葉集』において約120首読み込まれており、花の中では萩についで多い。当時、梅は舶来の輸入植物で、珍貴な植物で、貴族の家の庭にしかなかった。だから、好んで歌われたのである。したがって、歌の数が多いからといって、万葉びとがもっとも愛した花と、単純に考えることはできないのである〔桜井 1984年〕。

太宰府天満宮「飛梅」(photo by iStock)

ちなみに、『万葉集』に歌い込まれている花の数を列挙してみると、萩140首、梅約120首、松約80首、橘約70首、菅(すげ)約50首、桜約40首などとなる。しかも、梅が万葉歌に歌い込まれるのは、天平期以降で、その多くはこの梅花の宴の歌と、その影響を受けたと思しき作品においてなのである。万葉の梅は……当時の中国趣味なのだ。


天下の文人たちが、その文壇の中心にいた大伴旅人宅に集って、大陸渡来の流行の最先端の遊びをして、その遊宴のなかで、次々に梅花の歌を詠んだと考える方がふさわしいのである。


しかし、参会者に出たお題は、短歌を作って出せというものであった。ここに集った人士は、中国の古典にも精通し、梅花に関わる多くの漢詩文は知っているはず。ならば、逆に日本語の伝統的な詩のかたちである短歌を作ってみてはどうかというのが、この日の宴の趣向だったと考えてよい。

ではなぜ、漢詩ではなく和歌だったのか。おそらく、漢詩に詠み込まれている舶来の花を、自分たちの言葉である大和言葉の歌を通して表現することの方がより難しかったはずである。なぜならば、漢詩の表現を和歌の表現に置き換える高度な力がなくてはならないからである。だから、漢詩を作るより、和歌にするのが難しかったと思われる。つまり、天平2年正月13日の宴には、より難しい課題が出たというわけだ。宴で歌を披露することは、その実、知識と感性と表現力による戦(いくさ)なのだ。