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「令和」誕生の舞台「梅花の宴」を万葉研究の第一人者が解説

太宰府は文化交流最先端の地だった
上野 誠


九州の大宰府の所轄地域に、たまたま赴任した人びと。彼らは、その地で交遊し、梅見の宴を開いた。その様子を平城京に書き付けて贈ったのであった。おそらく、旅人は書簡を送るにあたって、その手控えを残していたのであろう。旅人の手元にあった三十二首は、旅人の平城京帰任とともに都にもたらされ、『万葉集』の巻五に収められることになったと思われる。おそらくは、息子の大伴家持(718-785)の手を経て。

ここからは、一つの推定となってしまうが、『万葉集』の巻五は、山上憶良(660頃-733頃)や大伴旅人らの元に送られてきた書簡と、発信者の書簡の手控えを利用して、編纂された巻であると、私は考える。しかしながら、最終的には、編纂者によって編集されていることを忘れてはならない。あくまでも、編纂された書簡集なのである。

 

梅花の宴の歌群をどう読むのか

さて、この歌群をどう見るかということについては、研究者間においても意見が分かれるところである。素朴な見方としては、天平2年(730)正月13日に、実際に32名全員が、旅人の宅に会したとする見方がある。一方、それはフィクションで、集ったかのごとくに歌を並べたとする説もある。また、歌の並び順が、宴で歌が披露された順番を反映しているとする説、座席順を反映していると考える説などがあって、いまだに意見の一致を見ない。


では、上野先生はどうお考えになっているのですかと問われると、はて? まぁ、一応、こう考えている。

『万葉集』は32名が一堂に会し、歌が並んでいる順に、歌が披露されていったと読者に読んでほしいと考えて、歌を並べていることは間違いない。だから、並んでいる順番に、歌が披露されたとして読むのがよいと考える。現代に生きる私たちが、それ以上のことを詮索して、座席の配置などを考えてみたところで、証明する手段などないので、ここは『万葉集』の記述を信ずるほかはない。したがって、旅人宅での実際の座席配置や、もとより32名がほんとうに旅人の宅に集ったかどうかなどということについては、一切不問としたい。

ただし、たとえ仮にフィクションであったとしても、それは『万葉集』が編纂された8世紀中葉における宴のあり方を反映して、それらしく歌が並べられているはずである。だとすれば、仮にフィクションであったとしても、当時の宴の歌のありようを推察する資料となり得ると、私は考える。