将門の首塚がある大手町 PHOTO iStock

出世街道を外れたエリートが、伯父や義父と「争族」を繰り広げた理由

平将門「承平の乱」はなぜ起きたのか?

平将門といえば、東京・大手町の超高層ビル群の合間にある〝首塚〟の存在がよく知られているが、平安時代、中央政界きっての有力者と主従関係を結んでいた彼は、まぎれもなく屈指のエリートだった。にもかかわらず、のちに一族間で血で血を洗う「争族」を繰り広げ、無位無官のまま生涯を終えたのはなぜなのか。『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)の著者・乃至政彦氏による論考。

平将門と承平の乱

このたび上梓した新刊は『平将門と天慶の乱』(4月10日ごろ発売)というタイトルだが、本稿ではその「天慶の乱」より前の「承平の乱」前夜を見てもらいたい。

平将門が関わった争乱は、私闘である〝前期〟の「承平の乱」と、朝廷への謀反である〝後期〟の「天慶の乱」に大別される。

承平の乱は、通説では将門の私闘と見られているが、よく見返してみると、単なる利害や怨恨の問題から起こった争乱ではない。

これは、ローカルルールですべてを押し切ろうとする地方豪族たちの無法ぶりに業を煮やした将門が、敢然と立ち向かった結果として生じた戦いなのである。

ここでは将門がなぜ戦いの道を選んだのかを見ていこう。

 

エリート武官だった平将門

少年期の平将門は京都にあって、摂家の藤原忠平に名簿を提出し、密接な主従契約を結んでいた。忠平は藤原氏の長者である。当時は公卿(三位以上の貴族)のほぼ70%を藤原氏が独占しており、その長者である忠平は政界きっての有力者だった。若き日の将門は、願ってもない出世街道を歩んでいたのである。

この時期の将門をより掘り下げてみよう。中世の文献では「将門は検非違使の職を望んだ」と伝えられているが、事実ではない。

なぜなら、この時代の検非違使は、中世と比べて大きな権限がなく、ときには清掃役まで担わされる一役人に過ぎなかったからである。将門は桓武平氏として臣籍降下した高望王の孫であった。そんな高貴な身分なのに、あえて日の当たりにくい仕事を志望することは考えにくい。

では、将門はなんの職に就いていたのか。

これは、このときの藤原忠平が蔵人所別当だったことに加え、系図類に将門の異名が「滝口小次郎」と伝わっていることから、朝廷直属の「滝口武士」だったと推定できる。

滝口武士とは天皇の親衛隊である。もちろんこの役を務めるには、それなりの出自を備えていなければならない。

将門の父・良持(良将とも)は従四位下という高位にあり、その「蔭子」である将門もまた20歳を超えると自動的に官位を受ける身にあった。

このように少年期の将門は、京都で屈指のエリートコースを歩んでいたのだ。しかしそれがなぜか出世街道を外れて、無位無官のまま、坂東へ帰国することとなってしまう。