大阪ダブル選に感じるモヤモヤの正体〜勇気ある行動か、横暴な決断か

代表者の役割とは何か?
早川 誠 プロフィール

国政でも、議員は憲法上国民全体の代表者とされる。それは、個々の人物や業界、また特定の地域にしばられない独自の政治的判断が必要だ、という趣旨に解釈できる。

とはいえ、クリエイティブなら何をやってもいいというのであれば、結局は住民のことなど一切考えなくていいということにもなりかねない。そのため、普通は代表の行動を何らかの制度で縛ることになる。選挙はそうした手段の一つでもある。

マニフェストによる約束や落選のプレッシャーは、政治家の行動を制約するのに役立つ。選挙は、代表に任せるためだけではなく、“任せない”ための手段でもあるのだ。選挙という制度を用いることで、クリエイティブなリーダーが住民無視の暴君にならないように枠をはめるのである。

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「メタ政治」とは何か?

ところが、上記のような制度を作っただけで代表の曖昧さがすべて解消されるわけではない。

代表論の先駆的業績の一つに、H.ピトキンの『代表の概念』(拙訳、名古屋大学出版会、2017年)という著作がある。その中に、後続の研究ではあまり言及されないのだが、「メタ政治」という論点が記されている。

メタ政治とは、人びとが選挙や日々の行政、議員の振る舞いなどを理解するわく組み、つまりは政治に対して持つ全体的な見方、考え方、姿勢を意味する。そしてピトキンによれば、どのようなタイプの代表が人びとから承認されるかは、メタ政治観によって左右されるという。

 

一例だが、政治家が有権者よりも有能で政治的争点を深く理解しており、その争点に唯一の正解が存在すると人びとが考えるのであれば、暴君による統治の危険を冒してでもクリエイティブな代表を求める声は高まるだろう。

逆に政治家と市民の間に能力の差はなく、政治的問題には数学などと違って正解はないと人びとが考えるならば、政治家独自の行動を認める意味はあまりない。淡々と制度に従う政治家が望ましいということになる。

つまり、制度による制約の度合いは、ただ制度が有るか無いかによって決まるわけではない。政治家と有権者に相対的な能力差を認めるのか、政治的な問題はいかなる性質を持っているのか、等々のさまざまな政治的論点をどのように判断するかによって、代表である政治家に何を期待するか、代表に制度からの逸脱をどの程度認めるか、は変化する。

制度と代表の関係は、有権者個々の政治に対する主観的判断によっても左右されるのである。

メタ政治とクロス選挙

今回、クロス選挙に踏み込んだ府知事、市長の判断は、部分的には制度に挑戦するものだと言える。もともと制度の目的が代表の判断や行動を制約することにあるのであれば、その制約を反故にするような制度の使い方は目的に反すると言わざるを得ない。脱法行為だという批判が見られるのも、無理はない。

しかし、それでもこうした制度の使い方は、ひとまず法で定められた範囲内にある。したがって、もし有権者が、制度の限界を試すことを代表のクリエイティブな工夫だと見なし、政治が思うように営まれない状況下では代表による独自の決断も有意義な選択であると考えるのならば、それもまた一つの民主的判断となり得る。