出版界の救世主となったベストセラーと、大正デモクラシーの終焉

大衆は神である(45)
魚住 昭 プロフィール

滝田樗陰死す

一方、樗陰滝田哲太郎は震災の年の秋から翌年春まで病床につき、さらにその年の11月から寝込んだ。もともと喘息を抱えていて、腎臓を悪くしていた。

『中央公論社の八十年』によると、滝田と同郷の画家・平福百穂は、滝田の病因は過飲過食のためではなかったかと推定している。人一倍大きかったと想像される彼の胃の腑は、幾本かの酒と数多き料理を平らげたのち、さらに2〜3本のビールを倒して平然としていたうえに、なお気に入った旨い物屋に梯子食いをする余裕を示していた。

 

かつてある料理屋で食べた鶉(うずら)がうまいといって、3皿もおかわりして、4度目に断られたこともあったし、平福が国もとから送られた鰰(はたはた)を裾分けしたところ、あとで、

「ヤ、久し振りで鰰を食った。お父さんへは二尾あげて、お母さんや家族のものは一尾ずつ、自分は一度に二十尾くらいは食った。のこった分はまた晩からつぎの朝とひとりで食ってしまった」

といった。滝田は健康と活力の源泉は美食あるいは大食にありと信じていた。そして、40歳前後から健康に不安を感じ出すとともに、美食によってその不安を圧倒し、自分自身を健康体だと信じ込もうとしたようである。

大正14年2月、3月、滝田は快方に向かい、床の上で梅や棕(しゆ)櫚(ろ)竹(ちく)の写生をしたり、雛の絵を描いたりしていた。

4月、彼は主治医の外出の許可を待つようになった。

5月1日、滝田は夫人に付き添われて丸ビルの中央公論社へ出かけた。半年ぶりである。その日から滝田は外出を始めた。中央公論社に出たり、相撲見物に行ったり、芝居に行ったりした。料理店にも行ったが、さすがに酒は飲まなかった。自分ではよくなったといっているけれど、昔、リンゴのようだった頰はげっそりとこけ、少し歩いても苦しそうに荒い呼吸をした。

10月、滝田は再起不能の身になったことを自覚し、中央公論社を退く決心を固めた。吉野作造を通じて社長の麻田駒之助に退任の意を表明し、退職金5万円を与えられんことを求めた。

麻田は、樗陰はずいぶん無遠慮にいう男だが、金のことはいまだかつて法外な要求をしたことがなかったといって、これを快諾した。

10月20日付の滝田の麻田にあてた感謝状には次のように記されている。

〈「中央公論」は公器なり。私情を以て去就を決すべきに非らず。是れ小生が今涙をも落さずして断乎『主幹』の地位を離るる所以(ゆえん)。切に貴下の御諒解を乞ひ申候〉

一週間後の10月27日、滝田は息をひきとった。享年44。吉野の朝日退社と滝田の死は、大正デモクラシーの終焉を象徴する出来事でもあった。