出版界の救世主となったベストセラーと、大正デモクラシーの終焉

大衆は神である(45)
魚住 昭 プロフィール

業界全体の清治に対する評価も劇的に変わった。博覧強記の文芸評論家・木村毅は『講談社の歩んだ五十年』にこう記している(読みやすくするため意訳した)。

──それまでの講談社はおそらく出版の物量においては、すでに出版界の最高位を占めていたであろうが、何分にもまだ社歴の浅い「成り上がり者」にすぎなかった。
博文館二代目の大橋新太郎が貴族院議員に互選され、実業之日本社の増田義一が衆院議員として活躍していたのに比べると、清治は「いまだ社会的ウエイトに欠け」ていた。
講談社は「中央公論や改造の両大雑誌が知識階級を動かしているほどの鮮やかな指導力」を持たず、「哲学の岩波、文学の新潮」といわれるような看板もなかった。
それが『大正大震災大火災』の出版で、清治は「現代の河村瑞賢(1657年の「明暦の大火」で木曽の材木を買い占めて巨利を得た商人)」の役割を演じ、それが契機となって、講談社はついに「全出版界にイニシャティブを取り、指導的位置を与えられる」ことになった。

 

しかし、清治には、関東大震災で朝鮮人を虐殺した日本社会の暗部に目を凝らそうとする姿勢はみられなかった。『大正大震災大火災』も美談哀話を重点に編集され、自序では「恐るべき流言蜚語は、昂奮しきつてゐる市民の神経を焦燥(いらだ)たせ、武器を提げて自ら衛るに至らしめた……前代未聞の恐慌よ」と、むしろ朝鮮人虐殺が正当化されている。

吉野作造の転身

震災翌年の大正13年(1924)2月、吉野作造は東京帝大を辞め、朝日新聞に入社した。

田澤晴子の『吉野作造 人世に逆境はない』(ミネルヴァ書房刊)によれば、吉野が大学教授から新聞社員へ転身した原因は大震災にあった。彼は「横浜の某富豪」から中国人・朝鮮人学生の学費を出してもらっていたが、その富豪が地震の打撃で金を出せなくなったので自分で費用をつくろうとした。朝日が提示した金銭的条件は不明だが、大学教授の年俸よりずっと良い待遇だったらしい。

また、このころ吉野の肝いりで建設された横浜の中国人留学生寮の管理人が、借金を残したまま多額の寄付金を持ち逃げした。名義上の管理人として借金の保証人となった吉野が、この件の尻拭いをしなければならなくなったことも一因という。

生前の吉野は転身の理由を公には一切語らなかった。田澤は「そこには、震災下での朝鮮人虐殺事件が影をおとしているようにも思える。それは吉野にとって、惨禍にあった人々に対して可能な、唯一の償いの方法ではなかっただろうか」と書いている。

しかし、吉野の朝日勤務は半年とつづかなかった。彼は入社後まもなく開かれた講演会で五箇条の御誓文発布の経緯について「明治政府の当路者は、金にも困り兵力にも困り、窮余の結果悲鳴を揚げるに到つた。その際陛下の出されたのが五箇条の御誓文である」と発言した。

この「悲鳴」という言葉をとらえて右翼団体・国粋会が抗議の声を挙げた。明治天皇を冒瀆する発言だというのである。

さらに、吉野は同年3月末から4月上旬、大阪朝日・東京朝日両紙に掲げた論説「枢府と内閣」で事実上の枢密院廃止を主張したため、枢密院関係者をいら立たせ、検察当局が吉野の起訴に向け動いた。結局、検察は吉野自身を何度か取り調べた末、吉野の朝日退社を条件に彼を不起訴にすることにした。

吉野は、正式退社が決定的となった6月25日に次のような言葉を記している(「念五」日とは25日のこと)。

〈人世に逆境は無い。如何なる境遇に在(あり)ても、天に事(つか)へ人に仕(つか)へる機会は潤沢に恵まれてある。
  大正十三年六月念五                     吉野作造〉