メーカー勤務サラリーマンが、医学部再受験で開業医まで上り詰めた話

こんな生き方もあるんです
原田 広幸 プロフィール

医学部には「再受験生」が何人もいた

北岡さんは入学後、5,6人の再受験生に出会ったそうだ。東京大学理科2類出身の30代半ばの元公務員、北海道大学出身の30代の人、20代後半が2,3人。慶應大卒の女性もいた。女性の再受験生は他にも1人いて、みな結構な大人だった。

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ちなみに、北岡さんが受験した新潟大にはなかったが、当時の入試システムでは、共通一次試験で高得点を取って、2次試験で学科試験がない医大を選べば、文系出身者でも医学部に入れるケースも多くあったようだ。(筑波大、岐阜大など。)

医学部では、なにもかも知らない事だらけの勉強を始めることになった。今の医学部入試では、面接試験や入学のためのエッセイがあるため、ある程度医療や医学部に関する知識がないと入れないが、当時は、臨床医と研究医の違いについて知らなくても、医学部に入れたのだ。

医学部の勉強はかなりハードだった。そんななかで、哲学や精神医学にも興味を持ち、「人間科学ゼミナール」に所属し、本もたくさん読んだ。内科の臨床医を目指したが、当時より医学の対象たる「身体」だけでなく、心の問題にも目を向ける必要性を感じ、当時は新しかった「心療内科」(国内では九州大学が発祥)も学んだ。

 

勤務医になった後の、開業の決断

卒業後は、新潟大学医学部付属病院の「第二内科」という医局に入った。ただ当時は、本院に勤めるのではなく、新任の医師の赴任地はローテーションで、くじ引きで行くところが決まるも同然のシステムだった。

新任医師の勤務先の選択の自由度は低かったが、そのかわり、地方の病院にもくまなく医師が派遣される仕組みになっていた。現在のように、都市部の大きな病院と田舎の大学病院で医師のなり手がアンバランスになることを防ぐことが出来ていたようだ。

勤務医としての仕事のハードさも、半端なものではなかった。朝から晩まで患者を診察し、フラフラになりながらカンファレンスの準備、ほとんど寝られずにまた翌日の勤務をこなす、といった日常を何年も繰り返した。

そんな極度なハードワークでも耐えることができたのは、日々、自分の医師としての実力がついていくのを実感できたからだ。

2年間で1,300人以上を受け持ち、その症例を毎日分析していくと、目に見えて成長を実感できる。その実力を、患者さんに還元できているのがわかる。人の役に立っているという実感をもてるのは嬉しかったという。

経験もある閾値を超えると、コンピュータやAIには代替できない、人間にしかできない瞬時の判断や対応が可能になってくる。とくに、急性期の患者さんを扱うときには、データや確率論では導けない、医師としてのカンとコツが必要になる場面がでてくる。

病院勤めの医師には、事務的な仕事や、研究や学会の準備など、避けては通れない雑事や、急患の対応、当直もある。病院経営の都合も考慮する必要があるし、望まない権力争いに巻き込まれることもある。必ずしも患者さん本位の仕事だけに専念できるわけではない。

もちろん、病院勤めが悪いことばかりではないが、長年勤務医をしていると、やはり、自分で納得のいく医療を患者に提供したいという希望も強くなってくる。そこで、満を持して自分のクリニックの開業を決断したというわけである。