メーカー勤務サラリーマンが、医学部再受験で開業医まで上り詰めた話

こんな生き方もあるんです
原田 広幸 プロフィール

半年間の「過酷な受験勉強」

早速、医学部の入学願書を取り寄せ、ほぼ10年ぶりの受験勉強を開始した。医師の家系出身でもなく、私立医学部に行けるお金の余裕はなかったので、学費の安い国公立の医学部に狙いを定めた。古文・漢文や日本史など、文系科目の勉強も必要だったため、急いで、そして集中的に勉強をする必要があった。

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受験準備のための費用は、すべて自分でまかなった。とはいっても、働きながらの受験勉強生活であったので、かけた費用は、新しく買った参考書や問題集代、情報収集のための雑誌や書籍代金、それと、受験料くらいだった。(ちなみに当時の国公立大の学費は、入学金と初年度の授業料を合わせても10万円ほどだった。)

会社の上司へは辞める意志を伝えたが、「お前の仕事を他の誰がやるんだ」と叱られて、すぐに辞めさせてもらえなかった。結局、その年の12月までに今の担当の仕事を完了させることを約束し、退職を認めてもらった。

当時は、社員は会社に「雇ってもらっている」のであって、労働法規上の権利が云々(通告して1ヶ月後に退職できる)などと交渉する雰囲気ではなく、自分の都合を押し通すことも出来なかった。ただ、受け入れてくれただけでも感謝しなければと思った。

 

会社の独身寮では、テニス部の仲間の遊びの誘いが頻繁で、とにかく賑やかだった。寮は雀荘の如く、毎晩、麻雀に興じるものの音で勉強どころではなかった。そこで、寮を出て、片道2時間かかる実家からの通勤を決断し、仕事をしながら半年間の受験生活を過ごすことになった。

この半年間は、勉強だけやっていれば良い高校生の受験生活とは全く異質の、切羽つまった緊張感のある受験期間であった。仕事を終え、自宅に帰宅するのは深夜。そこから問題集や過去問題にひたすらあたり、いつの間にか眠りにつく。朝起きると、昨夜解いていた問題の続きを考えている。

そのまま電車に乗り込み、車内でもノートや単語帳を開いて勉強する。休憩時間はそれほどなかったが、一瞬たりとも無駄にできないため、とにかくスキマ時間をすべて勉強にあてた。その時は、「自分よりも勉強している人はいないだろうと思うくらい勉強していた」そうだ。もちろん、勤務時間内は、仕事もおろそかに出来ないので、それはそれで一生懸命働いた。

12月。退職。ほどなくして、慌ただしく迎えた一次試験。国語社会を含む全科目(5教科7科目で1000点満点)を受験した「共通一次試験」(センター試験の前身で1979年から1989年まで実施)では、日本史を除き、おおむね良く出来たと実感した(1000点中850点位?)。

数学と理科は満点近く取れただろうか。それでも医学部は厳しいから、雑誌の情報を頼りに、ギリギリ合格できそうな新潟大学に出願し、その後1ヶ月間は毎日2次試験のための勉強を必死になった。当時は、予備校などが大量のデータを収集して精緻な当落ライン(ボーダー)を発表するという便利な仕組みはなかったと記憶している。

二次試験は、英語、数学、物理、化学の4科目受験という、現在の医学部の入試科目と同じラインナップ。難易度も今と同程度だろうか。もともと理学部出身だったため、数学はほぼ満点と思える自信の出来、それ以外の科目も、なんとか及第点だった。

また、当時の新潟大医学部の入試では、面接試験はなく、実力本位の選抜が行われていた。幸いなことに当時、面接試験があったのは私立大学が中心で、国公立大学医学部の多くは、学力本位の一本勝負だったのだ。

ともあれ、医学部受験を思い立ってから半年、超特急で、医学部入学に辿り着くことが出来た北岡さんは、本当にすごい。