昭和16(1941)年10月20日、宿毛沖で全力航行中の「大和」。当時、世界最大最強の戦艦として誕生した
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「戦艦大和」特攻を「思い付きの作戦」と痛烈批判した副砲長の無念

74年前の今日、沖縄へ特攻、沈没

「特攻」といえば、爆装した航空機による体当たり攻撃の神風特別攻撃隊がまずイメージされるが、74年前の4月7日、沖縄に向けて出撃し、米軍機の集中攻撃を浴びて沈没した「戦艦大和」が受けていた命令も「特攻」であった。

この「特攻」作戦で艦と運命を共にした乗組員の数は、神風特別攻撃隊でのすべて戦死者の数を上回る。戦果はほとんど望めず、撃沈されるのが自明の「破れかぶれ」な作戦を強行し、たった一度の出撃で3700人を超える若者たちを死に追いやった日本海軍上層部。

1割に満たない生存者の一人となった「戦艦大和」副砲長の清水芳人さんは、生還直後の報告書に、その無念の思いを書き残していた。

 

異様なまでに目に焼き付いた「特攻」の二文字

「准士官以上、第一砲塔右舷(みぎげん)急ゲ」「総員集合五分前」の号令が、戦艦「大和」の艦内スピーカーを通して響きわたった。昭和20(1945)年4月5日、午後3時過ぎのことである。

大戦末期、すでに米軍は沖縄に上陸し、日本陸海軍は沖縄に来攻した米軍に対し、まさに総攻撃をかけようとしているところであった。

「大和」は、口径46センチの巨砲9門を搭載、世界最大最強の戦艦として誕生しながら、日本海軍自らが真珠湾攻撃(昭和16〈1941〉年12月8日。停泊中の戦艦を航空攻撃で撃沈)、それに続くマレー沖海戦(同年12月10日、航行中の戦艦を世界で初めて航空攻撃のみで撃沈)などで航空戦の時代を切り拓いたこともあって、それまで、本来の威力を発揮する機会のないまま生きながらえていた。

基準排水量64000トン、公試排水量69000トン、全長263メートル、全幅38.9メートル。主要部は厚い装甲に守られ、「不沈艦」とも称されたが、姉妹艦「武蔵」は、すでに昭和19(1944)年10月24日、フィリピンで米軍機の攻撃を受け、撃沈されている。

昭和16年10月30日、宿毛沖で全力公試運転中の「大和」

清水芳人さん(1912~2008年)は、当時、海軍少佐で「大和」第十分隊長(戦闘配置は副砲長。6門の15.5センチ副砲を指揮する)を務めていた。急いで艦長・有賀幸作大佐、副長・能村次郎大佐の待つ前甲板に駆けつけた清水さんに、副長は黙って、手にしていた電報用紙を差し出した。そこには、次のように書かれていた。

<1YB(大和 2sd)ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄島ニ突入ヲ目途トシ 急速出撃準備ヲ完成スベシ>(聯合〔れんごう〕艦隊電令作第六〇三號 昭和二十年四月五日一三五九)(1YBは第一遊撃部隊、2sdは第二水雷戦隊を意味する。一三五九は午後1時59分)

昭和20年1月1日、「大和」前檣楼右下で撮影した、艦長以下、分隊長以上の士官の集合写真。前列左から3人めより高射長・川崎勝巳少佐、軍医長・黒田秀隆軍医少佐、航海長・茂木史郎中佐、副長・能村次郎大佐、艦長・有賀幸作大佐、内務長・林紫郎中佐、副砲長・清水芳人少佐、主計長・堀井正主計少佐、1人おいて右端一番主砲長・今村國松少佐、3列め右から3人め後部副砲指揮官・臼淵馨大尉

「これまでも出撃するときは生還を期していなかったし、戦況から半ば予想していたことではありましたが、電文にある『特攻』の二文字が、異様なまでに目に焼きつきました。同じ特攻でも、飛行機のほうは建前として『志願』ということになっていましたが、この海上特攻は否応なしの至上命令、『大和』だけでも3000名以上の乗組員がいるわけです。しかし、どういうものか悲壮な気分にもなれず、祖国の安危急迫のとき、一億特攻のさきがけとして『大和』と運命をともにするのは本望、何も思い残すことはない、と覚悟を決めました」

前甲板に整列した全乗組員に、有賀艦長は、

「出撃に際し、いまさら改めて言うことはない。全世界が我々に注目するであろう。ただ全力を尽くして任務を達成し、全海軍の期待に添いたいと思う」

と訓示した。清水さんの回想――。

「飛行機の護衛のない艦隊が、敵地に乗り込んで行ったらどうなるか、これまでの戦訓からも明らかです。私たちも無事に沖縄へ着けるとは思わない。しかし、もし万が一、天候が悪かったりして、敵機の攻撃を受けずにたどり着くことができたら、命令通りに撃ちまくるだけだと思っていました。特攻と言っても、怖れていては前に進めない。死ぬまでは生きてるんだからと思って、遺書も書きませんでした」

清水さんは明治45(1912)年、広島市呉市に生まれた。幼いときに両親をなくし、兄弟そろって東京の親戚方に身を寄せるが、関東大震災で被災、ふたたび呉に戻る。

昭和4年、広島県立呉中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)4年生を修了して海軍兵学校に入校。卒業後は遠洋航海を経て、重巡「高雄」、戦艦「扶桑」、軽巡「五十鈴」、重巡「妙高」、駆逐艦「呉竹」「江風」「三日月」「追風」「朝雲」、潜水母艦「大鯨」、練習艦「八雲」、軽巡「龍田」とさまざまな艦で勤務し、「大和」特攻の前年、昭和19年10月の比島沖海戦では、副長兼砲術長として乗組んでいた軽巡「阿武隈」が撃沈され、2時間あまりの漂流の末、救助されるという体験も持っていた。当時32歳、生粋の船乗りと言っていい。

「大和」には、出撃準備命令に続いて、すぐさま聯合艦隊からの出撃命令が届いた。

<海上特攻隊ハY-1日黎明時豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入敵ノ水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス>(聯合艦隊電令作第六〇七號 四月五日一五〇〇〔午後3時〕)

「大和」副砲長・清水芳人少佐。昭和20年2月11日紀元節、前部最上甲板主砲砲塔横にて。足元の甲板が、迷彩のために黒く塗られているのがわかる

「大和」には海軍兵学校74期を卒業したばかりの少尉候補生が42名、2日前の4月3日から乗艦していて、清水さんがその指導官を務めていたが、特攻出撃の命令を受けて、艦長の決断で候補生を退艦させることになった。血気盛んな若い候補生たちは「私たちもぜひ連れて行ってください」と艦長に直訴したが、「皆の気持ちはよくわかる。残って国のために尽くしてもらいたい」と諭す艦長の言葉に、涙を呑んで退艦していった。

「ああよかった、これで安心して征ける」

と、清水さんは安堵したと言う。南北朝時代、楠木正成が最後の出陣に際して、その子・正行を諭した故事が思い出された。

「この晩、艦内で最後の酒宴が行われました。可燃物はすでに陸揚げしているので、鉄の床に座っての宴会です。乾杯、乾杯で酔いつぶれた私を、部下の下士官たちが皆で私室に担ぎこんでくれました。『分隊長、最後ですから、私たちで毛布を掛けさせてください』という部下に、『最後ではないぞ、この調子で明日も寝かせてもらうからな。大和が沈むものか。皆、頑張れよ』と声をかけました。

そのときの毛布の温かみは、90歳になったいまも忘れられません。そこで、『大和は絶対に沈まんぞ、沈むまではナ』と付け加えたところ、皆どっと爆笑し、『おい、撃って撃って撃ちまくろう、この大和を沈めてたまるものか』と威勢のよい声が、いつものにこやかな顔から返ってきました」