肢体不自由児の施設へ

しかし、ついに初対面を果たしたからといって、母子ともに自宅で暮らせるようになったわけではなかった。これだけ深刻な障害のある子をどのように育てていけばいいのか、両親には知識も準備もない。周囲からは、まずは専門機関に身を寄せることを提案されたのだ。

母と私は、東京都板橋区にある「整肢療護園」という施設に移り住むことになった。整肢療護園は、太平洋戦争中の1942年に日本で最初につくられた肢体不自由児のための施設。主に肢体に障害がある子どもたちが医療や教育を受け、職能を身につける場所として、国のモデル施設として運営されていた。

療護園には、さまざまな障害児が通園・入園していた。たとえば脱穀機に巻き込まれて片腕を失くした子がひとりで暮らしていたし、「魚鱗癬(ぎょりんせん)」という全身の皮膚がうろこ状やさめ肌状になる遺伝性の病気で入園している子もいた。

母と私には、個室が与えられた。

ここにいれば、いつだってきちんと目を配ってもらうことができる。「普通と違う」といじめられたり、好奇の目に悩まされたりするリスクも少ない。母も自分と同じような「障害児を持つ親たち」と知りあうことができる。

しかし、母はここでしばらく生活するうちに「ずっとここにいても仕方ない」と思うようになったという。

家族3人での生活が始まる

母は、当時についてこう振り返っている。

「ヒロはとにかくミルクを飲まない子だった。普通の子の半分も飲まないから、最初はすごく心配してた。そのうち、ミルクを飲まないのは環境がヒロにあっていないからなのかもしれないと思って。ヒロを見ていると、療護園ではなく、普通の生活のなかで自由に過ごしたほうがあっている気がした。療護園で過ごした3ヵ月は、そういうことに気づくことも含めて必要な期間だったという気がする」

母は、家に帰る決意をした。

当時、両親は江戸川区西葛西にある2DKのマンションに居を構えていた。生まれて3ヵ月後の暑い夏の日、ようやく私は自宅に戻り、両親と家族3人で暮らすことができるようになった。

両親からの愛を一身に受けて育った

「東京都補装具研究所」を紹介されたのも、この頃だ。1971年4月に開所した肢体不自由者の補装具などを研究開発するために設立された施設だ。創設から5年あまりで、すでに160以上の手や足のない子どもたちのリハビリテーションを行なってきた実績があったが、私のような四肢がすべて欠損している子どもは初めてだった。

研究所設立の背景には、日本の高度経済成長にともなって増加する、労働災害や交通災害、そして当時社会問題になっていたサリドマイド薬害(催奇性の高い薬であるサリドマイドが睡眠薬として販売され、服用した妊婦から奇形児が生まれるケースが多発した)に代表される先天性形欠損、さらに老齢化による成人病などが一般に認知され始めたという社会状況があった。

自宅での生活が始まった私は、以降、義足や義手といった補装具の提供から、トイレや歯磨きの方法まで、補装具研究所によるさまざまなサポートと指導を受けることになる。もちろん、研究対象という側面があればこそのサポートだ。なにせ、四肢すべてが欠損しているケースは初めてだったのだ。

構成:園田菜々

次回は4月14日(日)に公開予定です。