来たる“移民社会化”に向けて、私たちに必要な2つの「発想の転換」

あなたも「移民」である
塩原 良和 プロフィール

「水道の蛇口」の幻想から「共棲」の思想へ

このように、日本が自由民主主義・資本主義国家である限り(独裁国家になって鎖国でもしない限り!)、移民の増加を「完全に」止めることはできない。

もちろん、移民の流入を統制できないとか、すべきではないと主張しているわけではない。これからも、出入国管理は主権国家の重要な役割であり続けるだろう。ただし「完全に」止めることはできない、と言っているだけである。

このあたりまえのことが、しばしば忘れられてきた。「日本に外国人労働者/移民を受け入れるべきか」という、繰り返されてきた論争では、まるで水道の蛇口を開けば水が出て、閉めれば止まるかのように、人の移動を「完全に」統制できるという想定が暗黙の了解とされがちである。だが現に増え続けてきた事実上の移民の存在は、それが幻想に過ぎなかったことを物語っている。

今後も、たとえ為政者たちが「壁をつくる」と政治的パフォーマンスを繰り広げても、国境をめぐる人の移動を「完全に」統制することなどできない。

繰り返すが、本稿では外国人/移民の受け入れを「促進せよ」とは、あえて主張しない。どのような人々を、どの程度、どのように受け入れるべきかについては、時間をかけた市民的討議がなされるべきである。

だが、出入国管理政策を厳格化すれば移民を一切受け入れずに済む、諸外国を悩ます「移民問題」から日本は無縁でいられる、という妄想は捨てなければならない。政府がどんな政策をとろうが、これまでも移民は日本に存在し、これからも増え続ける。

彼・彼女らが日本国籍を取得し、日本人と結婚し、その子どもが育つことで、「日本人」と「移民」の境界線はますます曖昧に、区別困難になっていく。好むと好まざるとにかかわらず、それが避けがたい未来像なのだ。

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この新たな前提のもとで、政策と社会のあり方を論じていかなければならない。つまり「移民を受け入れるべきか」ではなく、「あなたが望もうが望むまいが、すでにあなたと同じ社会に存在し、不可避に増え続けていく移民と、どのように折りあいをつけ、共存していくべきか」を考えなければならない。これが、ひとつめの「発想の転換」だ。

これは、米国の哲学者ジュディス・バトラーのいう「共棲(cohabitation)」の思想に通じる(メンディエッタ・ヴァンアントワーペン編2014)。

現代社会では多種多様な人々が同じ場所で生活することが避けられないのであり、自分が共に生きる相手を自分で選ぶことも難しい。そうであるならば、たとえ仲間だと思えなくても、共通点を見出すことが難しくても、そうした人々と共棲するために知恵を絞らなければ、自分自身の居場所を守ることすらできなくなってしまう。

「日本人」と「外国人」の二分法

もちろん、これまでそのような議論がなかったわけではない。日本政府もすでに2000年代半ばから、外国人住民を日本社会の「生活者」と認識し、「地域における多文化共生」の実現に向けた支援施策を不十分ながらも進めてきた。

2006年には総務省が、「地域における多文化共生」理念に基づく「多文化共生推進プラン」の策定を全国の自治体に要請した。同年、外国人労働者問題関係省庁連絡会議が「『生活者としての外国人』に関する総合的対応策」を策定した。

その後もリーマン・ショックや東日本大震災、顕在化した貧困・格差問題などに対処しつつ、外国人支援施策が進められてきた。2018年12月に発表された「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」は、こうした取り組みを集約したものであり、「地域における多文化共生」、「生活者としての外国人」といった理念が再確認されている。

いっぽう学界や支援現場からも、事実上の移民としての外国人住民への社会統合政策の促進が提言されている(移民政策学会設立10周年記念論集刊行委員会編2018)。

ただし政府による「外国人との共生」、「地域における多文化共生」、「生活者としての外国人」といった理念は、「日本人」と「外国人/移民」のあいだに明確な境界線が引ける、という想定に依然として基づいている(下地2019)。

「移民的背景をもつ」日本国籍保持者が増加することで、これが将来的に難しくなっていくのは先述の通りだが、現時点でも、この二分法的発想では対処できない現実が広がりつつある。国際結婚家庭とその子ども(国際児あるいは「ハーフ」)のアイデンティティ、言語・文化、そして複数国籍の問題は、その顕著な例である。

また日本国籍をもっていたり日本生まれであっても、日本語能力を含む様々な困難を抱える「外国につながる子ども」の存在が、地域や学校の現場で報告されている(荒牧ほか編著2017)。