関東大震災の混乱が生んだ「日本型出版流通システム」とは何か

大衆は神である(44)
魚住 昭 プロフィール

講談社の元営業部長・堀江常吉は『日本出版販売史』で次のように語っている。

〈『大正大震災大火災』を雑誌扱いで発送したのは(略)荷造り輸送の関係からであったのですが、同時に、これを雑誌販売店にまでも送りつけたということは、(略)その後の販売方法に重要な影響を与えたということができようかと思います。

あの時分の書店は、雑誌販売店と書籍販売店と全然わかれていて、一部分両方を扱っている店はあったが、雑誌だけをやってるところは書籍が扱えなかった。そんな不合理なことはないというのが私どもの社長の考えで、あの時も私はとりあえず東京堂に行って、『社長もこういっているから、これは雑誌販売店にも送ってほしい』といったのです。(略)

ことに私どもは雑誌が主な出版社で、雑誌にはいろいろな書籍の広告をくりかえしくりかえし出しているが、その雑誌を売っている書店にその広告の本がないということでは、読者も書店も大損失である。だから、私どもの社で発行する書籍は、雑誌の行っている書店にはぜひ送ってもらいたいという趣旨で、東京堂の赤坂さんをずいぶん口説いたものです。

しかし取次の立場としては、地方組合との関係もあり、事務処理のやり方も複雑になるし、雑誌並みに大部数が出なければ、取次も書店も労多くして報いられるところ少なしというような結果になる心配もあったかもしれない。何しろ長年のしきたりを俄かに変えるのは容易でなかった。それで、赤坂さんもはじめはだいぶ難色があったけれども、結局ふるい慣例を破ってこちらの案をとりあげて下さることになった〉

補足するまでもないと思うが、「ふるい慣例」を破ることを最終的に認めたのは、堀江のカウンターパートの赤坂でなく、東京堂専務で“取次界のドン”だった大野孫平である。清治と大野の信頼関係がなかったら、『大正大震災大火災』を雑誌ルートに乗せて売るという野心的な試みは実現しなかったろう。

 

「日本型出版流通システム」の成立

さらに付け加えておくと、3年後の大正15年、講談社は鶴見祐輔の義父で元内相・後藤新平のパンフレット風単行本『政治の倫理化』(定価10銭)を「荷造りは雑誌並み、料金は書籍」で全国の雑誌販売店に送りつけた。これは100万部近いベストセラーになった。

つづいて昭和3年(1928)、講談社は同じ方式で『ムッソリニ伝』(沢田謙著)初版10万部を出し、重版を加え18万6000部を売った。堀江によれば、前の2冊は針金綴じで薄表紙だったが、『ムッソリニ伝』は「厚表紙本綴じのちゃんとした造本」だった。

これが「単行本らしい単行本を雑誌販売店に配った最初」で、「それから道が開けて、雑誌専門の店でも単行本を扱うようにだんだんなってきた。その結果、組合の全国書店名簿にも雑誌と書籍と雑誌書籍の三部門に区別されていたのが、いつのまにかごちゃごちゃになっ」たという。

こうして生まれたのが、書籍・雑誌が同一ルートの日本型出版流通システム(諸外国では雑誌販売は新聞ルートに準じて行われている)である(註2)。このシステムは結局、アジア太平洋戦争をまたいで100年つづくことになるのだが、最盛期の昭和39年(1964)に編纂された『日本出版販売史』では、その意義が次のように総括されている。

〈橋本(著者) そうすると、雑誌販売店で単行本を売るようになったことは、結局、雑誌販売店、書籍販売店、雑誌書籍販売店と、従来三つに分かれていた全国の販売店を均一にしてしまった。これは従来の販売機構に一つの革命をもたらしたことであって、単行本の部数が格段に伸びるようになり、出版社も書店も共に潤う結果になったといえるわけですね。

大野 その通りです。そして「大正大震災大火災」がその試金石になったといえるでしょう〉

註① 柴野京子『書棚と平台―出版流通というメディア』(弘文堂刊)参照。
註② 同右。

参考文献
木下修『書籍の委託販売に関する一考察』(『杏林社会科学研究』2009、Vol. 25 No.1 所収)