関東大震災の混乱が生んだ「日本型出版流通システム」とは何か

大衆は神である(44)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

「雑誌の時代」を迎えた大正のメディア業界と講談社を、関東大震災の激震が襲う。混乱の中、50万部の「震災ルポ」が制作され、なんとか印刷するも、さらなる困難が立ちはだかる。しかし、そこから画期的な流通システムが誕生するのである。

第五章 少年たちの王国──出版界の革命(2)

初版20万部を配本してもらいたい

問題は紙や印刷所だけではなかった。赤石は小石川の東京堂会長(2代目大橋省吾)邸で元取次各社に対する説明会を開いた。そこで『大正大震災大火災』の発行理由を懇々と説明し、さしあたり初版20万部を各社で適当に分配して全国へ配本してもらいたいと要請した。

ところが、各社はあっけにとられ、東京堂の販売主任・赤坂長助は「わが社では2000部だけ引き受けます。それ以上は引き受けられません」と言った。東京堂には10万部を引き受けてもらう予定だったから、2000部では話にならない。赤石は強談判(こわだんぱん)した。

「この際、ご無理でもなんとか方法を立てて我らの計画を遂行させてほしい」

しかし、元取次各社にとって初版20万部は、それまで経験したことのない大冒険である。当時の出版流通システムも、そうした書籍の大量販売向けにつくられていなかった。

東京堂で長年、書籍販売に携わった松本昇平の『業務日誌余白――わが出版販売の五十年』(新文化通信社刊)によると、「大正は概して雑誌時代で、雑誌小売店十に対し書籍小売店三の割合だった。その三の十分の三程度が書棚と平台を備えた書籍と雑誌の小売店」だった。

 

さらに当時は取次から書籍を送る運賃が小売店負担であったため、勝手に本を送りつけることができず、「講談社の新刊書籍は委託(=返品自由の配本)何冊」あるいは「委託不要」と小売店側から送品指定されると、委託可能店はわずかしかなくなった。

一方、雑誌店は全国に9000店とか1万店あり、大概の店は文具店を兼業し、呉服店から旅館、くすり屋までも本屋さんとして雑誌を売っていた(註1)。

つまり書籍販売網より、雑誌販売網のほうがはるかに広く、きめ細かかった。講談社の狙いは『大正大震災大火災』という書籍を雑誌取次の流通ルートに乗せ、大量販売することである。

しかし、それには輸送上の問題があった。雑誌ならば新聞紙に包んで汽車に積み込めばいいが、書籍はそうはいかない。いちいち木箱に詰め、縄をかけ、荷札をつけ、目方をはかって1個ごとに料金を計算し、あずかりの伝票をつけて送らなければならぬという規則があった。

この方法で書籍を10万部、20万部と送るには、1ヵ月、2ヵ月以上かかる。だいいち震災後の混乱で木箱も調達できなかったし、それをつくる材料もなかった。