なぜ元号の典拠は「中国の古典」であり続けているのか

元号を考える②
堀井 憲一郎 プロフィール

インターネットの時代、オリジナルであるかないかをやかましくいう傾向にある。コピー&ペーストで他人の著作を簡単に自分のものとして表現するのは大きに問題であるが、しかし、オリジナルでないものをすべて否定的に見るのも、かなりの問題でもある。

元号を日本のシステムだと信じて、日本の古典から文字を選ぼうという意識もまた、そういうやや偏った気分の反映に見える。

 

現在の中国を「文明国」と捉えられるか

くわえて「現代の中国」への印象もある。

中華人民共和国との関係は微妙である。

彼の大国の風下に立つのを良しとしない気分が横溢としているのはわかる。

たしかに、現在の中華人民共和国を、偉大な文明国として尊敬できるかと聞かれれば、私としては、あまりできないなあ、と答えるしかない。この国の創立者の毛沢東は、中国教養に長けた文化人であったのに、その中国文化を徹底的に破壊しつづけたかなり暴力的な英雄でもあった。

世界の文明基準とかなり違う指針で動いている現代中国は、政治経済の分野はともかく、文明国として、あまり見習えるところはない。尊敬できる文明国であるとは言えない。

だから文化の面でいまの中国の風下に立つのはあまりおもしろくない。

その気分はとてもよくわかる。

ただそれと、「我が国の伝統的な儀式である改元」のその典拠を、古い中国の書籍(たとえば四書五経など)から選ぶというのは別の問題だ。

そもそも、中国共産党支配の中国と、古代の周王朝や魯の国は、あらためて言うが、まったく別の国である。

東アジアにおいて、まず先陣を切って「文字」を創り出し、歴史を残すという文化的作業を始めた「古代中国」は、いまも尊敬の念を持って眺めることができる。それはわが国の先人たちも強く持っていた感情でもある。日本のインテリジェンスの伝統は、中国文明のおかげで形作られたのだ。

「中国」の古典から「日本の元号」の文字を選ぶということは21世紀にあっても大いなるインテリジェンスの発揮だと私はおもっている。